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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -11/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


 山岡鐵舟が師事したのは、武蔵國北足立郡芝村、今の埼玉県川口市芝に在る臨済宗の古刹大智山長徳寺の禅僧順翁でした。
 その経緯が判りませんが、禅師の順翁が山岡鐵舟の自宅へ来て指導をしました。座禅の最中に山岡鐵舟が順翁が持つ警索で叩かれるのを弟子達が垣間見ます。警索は樫の棒状の板で、これで肩や背中を遠慮なくビシビシと叩きますから、禅の修業を知らない者、特に山岡鐵舟の弟子達には師匠が打たれていると見たのでしょう。鐵舟の弟子の幾人かが、順翁が帰る道すがら、待ち伏せして竹刀で打ち掛かろうと何度か試みたそうです。ところが、順翁にまったく隙がなく、竹刀を振り上げることも出来なかったと伝えられます。

 慶應四年(1868年)早々、山岡鐵舟は精鋭隊の歩兵頭格となります。本来なら旗本として栄えある役柄ですが、この慶應四年は九月八日(太陽暦では10月23日)に一月一日に遡って明治と改元する詔書が出された年でもあり、まさに徳川幕府の最後の年になります。
 ほどなく、山岡鐵舟は勝海舟に呼ばれました。この頃、勝海舟は陸軍総裁で若年寄の地位にあり、陸海軍を統率する軍事取扱役となって、五千石の俸禄を得た安房守でもありました。

「鐵舟殿、上様より全権を委ねられたのだが、駿府に留まっておる西郷殿に急ぎ書を届けていただけぬか」
「はい。命とあらば駿府であろうと何処であろうと。しかしながら、某(ソレガシ)は歩兵頭の如き軽輩でござりまするぞ」
「本来ならば高橋伊勢守にお頼み申すのだが、泥舟殿は上野寛永寺にて謹慎されおる上様の側を一時も離れることができぬ。泥舟殿にも御相談申したが、鐵舟殿がよかろうと申されておられた。この際、格とか石高は論外でござる」
「上様の書とは如何なる書にござりまするか。拙者、書を覗き見るにあらず、如何に大切なる書か、それを知りとうござりまする」
「是非もないこと。江戸城を明け渡すとの書でござる。戦わずに、江戸の民を戦いに巻き込んで苦しめることなく、江戸城を西郷殿に明け渡すと記しておる」


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N.Hori

上記の文に紹介されている川口市芝の長徳寺は、川口駅の東口前を通る「産業道路」を左折し、5,6km北上し、東京外環自動車道路の手前の左側にあります。JR・京浜東北線の最寄駅は、蕨駅です。
by N.Hori (2012-08-22 08:08) 

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