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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -3/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


  山岡鐵舟は天保七年(1836年)六月十日、江戸本所で幕府御蔵奉行を務める旗本小野朝右衛門高福(タカヨシ)の四男として本所に生まれました。母の名は磯で、磯は鹿島神宮の神職塚原石見の次女で、剣聖塚原朴傳の末裔です。尚、山岡鐵舟の父小野朝右衛門高福は六百石取りの旗本ですが、武蔵國比企郡木呂(キロコ)村に知行地が与えられていましたので、旗本としては高位の旗本でした。
 山岡鐵舟の「鐵舟」は号ですが、もう一つ、「一楽斎」の号も持っており、本名は高歩(タカユキ)、通称は鐵太郎でした。


「鐵太郎、もう九歳になったのう。そろそろ剣を学ぶか」
 鐵太郎が九歳になった弘化元年(1844年)、父の小野高福が息子に声を掛けました。
「はい。剣術を学びとうございます」
「お前は、並みの子より大柄じゃ。正しく剣を学ばねば、力任せの乱れたる剣になる」
 かくして、小野鐵太郎は旗本仲間の久須美閑適斎祐義から直心影流の剣を学ぶことになりました。
 ところが、翌年の弘化二年(1845年)、小野朝右衛門高福が飛騨高山の郡代に転勤となり、鐵太郎も共に飛騨へ移ることになります。久須美閑適斎祐義から剣を学んで未だ一年も経たず、残念ではありますが、小野朝右衛門高福は礼を言うために久須美閑適斎祐義を訪ねました。


「此度、飛騨高山の郡代を仰せ仕り、鐵太郎も連れて参らねばなりませぬ。一年ほどでござったが、直心影流の手ほどきを有難く存知おりまする。この御恩、父子共に忘れは致しませぬ」
「拙者も申し上げねばと思うておったのだが、御子息の鐵太郎、剣の筋はなかなかのもの。飛騨の山中で埋もれさせるは勿体なきこと。江戸より剣に秀でたる者を呼び、引き続き剣の稽古に励まれよ。これは世辞ではござらぬ」
「左様でござりまするか。親の目にはそのようには見えませぬが」
「いや、間違いはござらぬ。母御の血を受け継いでおられる」


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