こげ茶色の細い竹 -19/21 [北陸短信]
刀根 日佐志
次郎のことを、先生はいつも「夏山社長さん」と丁寧に呼んでいるが、今も変わらない。寝ている顔を、斜めに向けてしゃべる顎には、歯がなかった。気が付かなかったが、今まで入れ歯であったのだろう。
「先生、何なりとどうぞ」
「今から、社長さん……会社の若い方……二人連れてきて欲し……」
「何をするのですか」
「両脇を……若い人に支えて欲しい……私を自宅まで、連れて行って……。最後のお願いだ……」
「そのときは、病院の了解が必要になりますね」
「そんなことは必要な……い。私が帰ると言っている……。それでよい」
「私は、病院を出る旨の……手紙は書いてあるので……枕元においていく」
父の身体は衰弱していますが、人の言うことは正確に理解しています。自分の話すことも的確ですと、息子さんが話していた。今でも相変らず頭脳明晰である。
「酸素吸入などは、どうしますか」
「こんなものは……、いらない。気休めだから……。今も横に置いて……あるだけ……」
先生は念押しをするように、枕の横に置いてある酸素マスクを、左手でぽいと布団の上に放り投げた。
「点滴をしていますが、このまま付けていくのですか」
「いやこれは皆、関係の……ないもので、今外しても……よい」
左手で水飲みを持ち、右手で水飲みに差し込んだストローを、引き寄せ水を飲んだ。飲むと、少し楽になるのか、心持ち言葉は滑らかに聞こえた。
「息子さんに、連絡してみましょうか」
「連絡をしない……で欲しい」
「自宅へ帰って、評価の仕事をなされるのですか」
「次の会長は山田先生に……お願いした……これでよい。もう評価の本も……書いた。……これでよい」
かなり疲れたのか、しばらく目を瞑り、じっとしていたが、顔を左右に動かすと、目を開けた。そして苦しそうに咳払いをした。
「では、家へ帰って何をするのですか」
まだ遣り残していることがあり、先生は心残りなのかと思い、次郎は聞いてみた。
「家へ帰って……。これで終わりにしたい……」
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