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創作短編(49):番外編 江戸の珍商売 -4/8 [稲門機械屋倶楽部]

              2012-08 WME36 梅邑貫



四文屋(シモンヤ)


 江戸幕府中期の明和五年(
1768年)、この時代は第十代将軍徳川家治の治世下であり、あの老中田沼意次が出現する直前ですが、新しい通貨である真鍮で鋳造した「四文銭(シモン・セン)」が発行されました。現代に置き換えると50円硬貨のようなものです。
 この「四文銭」一つで何かが食べられる屋台が出現し、これを「四文屋」と呼びました。両国広小路から神田の柳原、さらに芝浜の海岸に沿って四文屋の屋台が並んでいたそうです。


 もう一つ、これを機に興味深い現象が生じました。それは「串団子」です。四文銭が世に出るまで、串団子は、竹串に五つの団子が刺さって五文でした。
 四文銭の登場と共に、一串の団子の数が五つから四つに減らされ、何と今日まで続いています。

 


羅宇屋
(ラウヤ、又は、ラオヤ)

 江戸時代の煙草は刻み煙草でした。刻んだ少量の煙草を煙管(キセル)の先端の火皿に詰めて、二服か三服を吸うのですが、金属製の火皿と吸い口を結ぶ竹の中間部が熱で曲ったり、煙草の燃えカスで詰まったりするので、この竹の部分は頻繁に掃除をして、ときに交換しました。この竹の管の部分を羅宇(ラウ、又は、ラオ)と呼びました。書物では、ラオス産の竹を使ったので羅宇と呼んだと記されています。竹なら日本にも豊富にありますから、何故、ラオス産の竹であったのかよく判りません。
 
この羅宇を掃除したり交換したりするのが羅宇屋で、甲高い「ピー」と聞こえる音を鳴らしながら、工具類を積んだ屋根つきの荷車を曳いて街々を歩いていました。
 
私の母方の祖父は煙管煙草でしたが、戦前の東京にはまだ羅宇屋がおり、目黒駅近くの自宅へ遊びに行くと、ときおり羅宇屋の「ピー」を聞いて、煙管の羅宇を掃除させている光景に出遭いました。
戦後になって羅宇屋を見掛けたことがないのですが、煙管用の刻み煙草は今でも売っています。


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コメント 3

ぼくあずさ

終戦後の田端、まだ毎日我家の前の道路に馬糞拾いが来ていた頃
ですが、ラウヤが偶に通ったことを記憶しています。父の使用した銀製
の煙管が遺されましたが、家族全員がタバコを嗜むことがなかったので
今では行方不明です。
by ぼくあずさ (2012-08-05 10:25) 

村尾鐵男

ぼくあずさ氏も羅宇屋を覚えていましたか。
互いに高齢者、紛れもない事実です。昭和が遠くなりました。
by 村尾鐵男 (2012-08-05 11:28) 

あゆさこ

きざみ煙草、懐かしいです!今でも売られているのですね!
幼い頃、祖父がキセルにきざみ煙草を詰めて吸っていた光景が頭に浮かびました。
母の実家に行くとき、幼稚園バックいっぱい、きざみ煙草を入れたのを背負って、母方の祖父のお土産に持って行った事もありましたねぇ・・・。(笑)
by あゆさこ (2012-08-12 05:29) 

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