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創作短編(48):緒方洪庵 -9/9 [稲門機械屋倶楽部]

              2012-07 WMER36 梅邑貫



 緒方洪庵は日本で最初の牛痘を実用化し、西洋医学を普及させた医師であり、医学者でもあり、さらに加えて、優れた蘭学者でもありました。
緒方洪庵が活躍した幕末の頃、世の中は開国か攘夷かで騒然としており、蘭学者として高名になればなるほど身の危険がありました。そこで洪庵はピストルを買い求め、いつも懐に忍ばせていたそうです。
緒方洪庵が何時、どのようなピストルを買ったのか。これが、いくら調べても、どうしても判りません。

  緒方洪庵を語るとき、妻の八重のことを避けることはできません。八重については、福沢諭吉の次の言葉があります。
「私のお母っさんのような方」
「非常に豪(ツヨ)い御方であった」


 既に記しましたが、八重は十七歳で洪庵の妻となり、七男六女を育て、その上に夫の門弟達には母親代わりの役目を果たしました。福沢諭吉が適塾へ入門したのは二十歳のときであり、大村益次郎は二十二歳、佐野常民は二十五歳、橋本佐内にいたっては僅かに十五歳のときです。
 この門弟達に慈母の如く接して夫と共に育て上げ、さらに実家の和紙製造にも励みました。
 八重は花香の号で歌も詠んだのですが、残念ながら緒方花香の歌を見つけることができません。
 明治十九年(1886年)二月七日、八重は六十五歳で没しますが、その葬儀には適塾の門弟はもとより、政府要人と名士達が二千名も参列し、葬列の先頭が大阪の日本橋に達しても、八重の棺はまだ北浜の自宅を離れていなかったと伝えられます。
 名塩に建立された八重の胸像には、適塾の門弟で、後に日本赤十字社を創設した佐野常民が墓碑銘を揮毫しております。佐野常民は、若い頃、適塾で八重から受けた恩義は忘れることができないと言い続けておりました。                                   ()


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コメント 1

hanamura

頑固親父も、肝っ玉母さんも、今の世の中・・・どうなのでしょう?
洪庵のピストルは、興味があります!高杉晋作が坂本龍馬に土産にしたスミス&ウエッソンなのかなぁ?雷管弾時代の拳銃全般が気になる最近です。
by hanamura (2012-07-30 22:18) 

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