創作短編(48):緒方洪庵 -4/9 [稲門機械屋倶楽部]
2012-07 WMER36 梅邑貫
緒方洪庵と同じ時代に、やはり医学を志した華岡青洲(ハナオカ・セウシュウ)がおります。緒方派と華岡派は弟子同士がかなり激しい対抗心を剥き出しにしていたようです。
後年、福沢諭吉が遺した言葉に、この緒方派と華岡派の弟子達による対抗心を物語るものがあります。
「今に見ろ。彼奴等を根絶やしにして、呼吸の音を止めてやるから」
しかし、華岡青洲は宝暦十年(1760年)の生まれで、緒方洪庵よりも五十歳も年上であり、華岡青洲も麻酔を開発した立派な医師ですから、緒方洪庵と華岡青洲の当人同士の間には節度のある関係が保たれ、相互に情報交換を行い、医学そのものの発展に意を注ぎ、患者の紹介もしております。
さらに、緒方洪庵の適塾は医師を養成するだけではなく、蘭学を突破口にした幅広い人材の養成に意を注いでおり、後の幕末から明治維新の激動期に活躍した者達を輩出しております。その内から主だった者を列挙すると、福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎、高松凌雲の諸士で、いずれも日本の歴史に名を残す存在となっております。
佐野常民は明治政府の閣僚を務め、赤十字の創設者として知られ、長与専斎は後に適塾の塾頭も勤めますが、長崎大学医学部の基礎を築き、東大医学部の前身である東京医学校の校長をも務め、日本の医学教育に貢献すること大で、後藤新平を見出したことでも知られ、岩倉使節団の一員でもありました。
高松凌雲も医師として大成し、明治政府の誘致を一切断って、特に貧民を無償で治療する同愛社の創設者として知られますが、幕末にはパリ万博の随行医師として渡欧してフランスでも医学を学んでいます。
福沢、橋本、大村、大鳥の諸士は医師の道を選んではいませんが、幕末から明治維新の時代にそれぞれに名を残す偉業を成し遂げています。このように、緒方洪庵の適塾は、単に医師の養成に留まることなく、日本の行方を決する人材を養成しました。
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