SSブログ

創作短編(48):緒方洪庵 -2/9 [稲門機械屋倶楽部]

              2012-07 WMER36 梅邑貫



 緒方洪庵はこの思々斎塾で蘭学に目覚め、さらに医師としての勉学にも励み、四年間に及んで中天游の教えを受けます。その四年間が経過した天保二年(1831年)、洪庵は師の天游に江戸へ出る許しを乞います。
「江戸へ参りたく思うておりますが、お許しいただけまするか」
「江戸へ参って何を致すのじゃ」
「さらに蘭学を究めたく思うております」
「ならば、坪井信道殿がよかろう」


 坪井信道は蘭学者でもあり蘭医でもありましたが、美濃國の出身で織田信長七世の孫とも伝えられますが、天保二年当時は江戸の深川で安懐堂と呼ぶ私塾を開いていました。緒方洪庵は坪井信道に蘭学を学ぶ一方で、大槻玄沢の後継者と言われた蘭医の宇田川玄真にも学びました。
 緒方洪庵は江戸でほぼ五年を過ごして勉学に励みますが、その向学心はますます強く、坪井信道と宇田川玄真も緒方洪庵に長崎へ赴いてさらに学ぶことを勧めました。


 天保七年(
1836年)、緒方洪庵は長崎へ行き、オランダ人医師ニーマンの下で医学を修めるべく研鑽を続けますが、自ら緒方洪庵と名乗るのはこの長崎時代からであったと伝えられます。


 天保九年(
1838年)、緒方洪庵はオランダ医学を修めて大坂へ戻り、瓦町、現在の大阪市中央区瓦町に医院を開業し、併せて蘭学塾である「適々斎塾」、通称「適塾」を開きました。

 
 
この天保九年(1838年)、緒方洪庵が二十九歳のとき、中天游の思々斎塾では大先輩になる億川百記(オクガワ・ヒャッキ)に呼ばれました。
「洪庵殿、たっての願いがあるのだが」
 いつもは「緒方」とか「公裁」と呼び捨てにされている億川百記から「洪庵殿」と呼ばれて驚きました。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。