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創作短編(47):番外編 時代劇を楽しむ基礎知識 -6/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                         2012-07 WME36 梅邑貫


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 小普請組(コブシングミ)から御番入(オバンイリ)


  旗本と御家人を合わせて二万二千余人がいたのに、それに対する職は極めて少なくて、五百ほどの部所しかなく、一部所に十人としても、一万七千人は仕事がありません。
  この一万七千の無職の武士達、主として御家人ですが、これを集めたのが小普請組で、あの勝海舟の父親の勝小吉も小普請組に属していました。現代流に言えば、定常的な職業を持てない者を公共工事等に随時派遣するようなものです。
 仕事は江戸城の石崖の修理とか、幾つもあった門の警備とか、ともかく決まった仕事はなく、その日その日の仕事です。
 大変紛らわしいのですが、徳川幕府に「小普請請負」なる組織がありました。この組織は「小普請組」と同じように江戸城の修理や改造を主たる任務としますが、熟練の大工や鳶職等のより高度な専門技量を必要とする仕事を請け負う専門家職人集団でした。

  小普請組に所属する無役の旗本や御家人は何かの役に就くことを切に望んでいます。特に名誉ある戦闘集団である番方の一員となれることを希求しています。
  
誰でもそうですが、定職がなくて毎日を為すこともなく過ごすのは苦しいことで、何でもよいから幕府の役職の一員となれることを願っています。
  
願い叶って番方の一員となることを「御番入」と呼びますが、これは俸禄のこともありますが、彼らの名誉も掛かっていることです。

 
  
再び勝海舟の父親である勝小吉の話に戻ります。小吉は旗本男谷平蔵の子として生まれますが、妾腹であったために七歳のときに勝甚三郎の養子となります。勝家は三河以来の譜代の武士ですが、僅かに四十七石の御家人で、養父の勝甚三郎本人が無役の小普請組の一員でした。
   
小吉の実父である男谷平蔵は当時の江戸で音に聞こえた剣術の名手で、小吉も剣術だけは滅法腕が立ち、浅草や本所で喧嘩が強いことで知られてはいたものの、御番入には恵まれませんでした。その小吉の倅が勝海舟で、薩摩の西郷と共に維新の立役者となりました。


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