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創作短編(46): 山田方谷の偉業 -10/11 [稲門機械屋倶楽部]

                                 2012-07 WME36 梅邑貫 


 
備中松山藩の藩主板倉勝静は松平定信の孫でもあり聡明でもあったことから、幕府内で奏者番から始まって次々と要職に就きました。寺社奉行への就任に際して、山田方谷は諫言しています
「殿、寺社奉行は大名にとって名誉ある職にござりまする。されど、賄金を用意する余裕はござりませぬ」

 三奉行と称される町奉行、勘定奉行、寺社奉行の内、町奉行と勘定奉行は旗本が務めますが、寺社奉行は大名でなくては就任できず、しかも、それには幕閣への賄賂が必要でした。
 備中松山藩の財政状態は藩主の板倉勝静もよく知っていますから、寺社奉行の地位を得るための賄賂はもとより、その職に就きたいとの意思表示もしませんでした。しかし、板倉勝静の力量はよく知られていたので、ほどなく寺社奉行に就任し、さらに老中にも就いております。 

板倉勝静は、松平定信の孫であり、八代将軍吉宗の玄孫でもある立場上のこともあったと推察されますが、幕末の騒乱の中で幕府へ忠誠を隠せず、加えて、十五代将軍慶喜からは絶大な信頼を得ており、奥羽列藩同盟に加わって官軍に徹底抗戦し、箱館まで転戦を続けました。

その板倉勝静を山田方谷は厳しく誡めます。
「殿のお立場、よう判りまする。されど、殿は備中松山藩の藩主。先ずは領民のことをお考えにならねばなりませぬ。領民在っての藩主。領民なくして、藩も藩主もござりませぬ」  しかし、板倉勝静にも立場があり、山田方谷の言葉が正しいとは思いながらも、幕末の大きな流れに翻弄されます。 

官軍は逸早く恭順の意を明らかにした岡山藩に松山藩の攻撃を命じるのですが、それを知った山田方谷は、藩主不在のまま、朝廷への恭順の意を表明し、備中松山城を明け渡す旨を明らかにしました。
さらに、山田方谷は配下の者をプロイセンの商船で箱館へ向かわせ、籠城している板倉勝静を江戸へ連れ戻します。 
板倉勝静もことここに至っては、朝廷への恭順を公式に表明せざるを得なくなりました。

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