SSブログ

創作短編(46): 山田方谷の偉業 -9/11 [稲門機械屋倶楽部]

                                2012-07 WME36 梅邑貫 



 山田方谷の事跡として忘れてはならないことがもう一つあります。それは軍制改革です。山田方谷が元締役に就く前、近隣の津山藩と瀬庭藩へ赴いて西洋式砲術を学び、最新式の軍事技術を習得して備中松山藩の軍制改革に役立てます。

 方谷が陽明学を深く学び、洋式砲術まで修練に努めていた頃、諸外国の巨船が次々と日本の沿岸に現れ、嘉永六年(1853年)には米国の蒸気軍艦がペリーに率いられて浦賀沖へ現れ、巨砲を放って開国と通商を求めました。
「最早、弓、槍、刀の時代ではあるまい。我等の備中松山藩も銃と砲を備える時代と相なり申した」が、山田方谷の偽わらざる感慨でありました。
 備中松山藩は「貧乏板倉」と呼ばれて、盗賊も近寄らなかったのですが、借財を順調に返済し、特産品を江戸へ直送して売るようになってからは藩庫も潤い始め、不思議なことに盗賊達が舞い戻って来ました。
 山田方谷は、この盗賊に備え、且つ次代の軍を育成するために、農民の中から屈強な若者を選んで帯刀させると共に銃をも与えて厳しく訓練しました。その結果、銃で武装した藩の正規兵が四百名ほどになり、加えて郷兵と呼ばれる予備兵力が千数百名にもなりました。江戸時代、藩の石高一万石につき二百名の兵を用意する習わしであり、備中松山藩が二千名近い近代武装の兵を準備したことは十万石の藩に匹敵します。
 話が少々外れますが、後に同志社大学を創立した新島襄は、板倉家の同属である安中藩の藩士でしたが、その縁で備中松山藩を訪れて、蒸気船快風丸で近代航海術の訓練を受けました。
 新島襄だけではありません。長州の久坂玄瑞(クサカ・ゲンズイ)も越後長岡藩の河合継之助も山田方谷を訪ねて教えを乞うています。
 山田方谷の存在が光るのは、「貧乏板倉」を再建した理財家としてだけではなく、ペリーの来航によって起きる変革を局外に身を置いて見通す先見性にもあり、次の言葉も遺しています。
「幕府なる衣は吉宗が洗い、松平定信が再度洗ったが、汚れがひどく、綻び多いので、仕立て直さなくてはならない」


nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。