創作短編(46): 山田方谷の偉業 -3/11 [稲門機械屋倶楽部]
2012-07 WME36 梅邑貫
新見が隣の藩とは言え、自宅から通えるわけではなく、丸山松蔭の私塾に住み込みで教えを受けるので、まだ五歳の安五郎には心細い思いがあったであろうと察せられます。しかし、安五郎は丸山松蔭の塾でも神童振りを発揮しました。
五歳にして孔子の論語をはじめとして書経等を読み下し暗誦できるようになっていた安五郎は、師の丸山松蔭にとっても、目に入れても痛くない弟子であり、親子以上に年齢の離れた可愛い弟子でもありました。それと共に、母親の梶にとっても、安五郎が自慢の息子に育ち行く姿は頼もしいことでありました。
安五郎が十五歳になったとき、母の梶が病に伏し、安五郎は師の許しを得て急遽帰宅しますが、その安五郎に梶は言いました。
「お前にとって、今、最も大切なることは学ぶこと。まさか忘れてはおるまいな。学びを放り出して戻ってくれても、母は少しも嬉しくはない。直ぐに松蔭先生の下へ戻りなされ」と、梶は外見には冷たく言い放って安五郎を突き離しました。
間もなく母親の梶は没し、その翌年には父親の五郎吉も没し、山田安五郎は菜種油の製造と販売の家業を継ぎますが、筆舌に尽くし難い苦労の連続となります。
安五郎には二人の弟と妹がおり、加えて、母の梶が没した後に入った継母もおりました。
安五郎は実父母を失った後、菜種油の製造販売と農作業で苦労しますが、この体験が後に備中松山藩の財政を救う優れた理財家を生み、その安五郎が著した「理財論」に活かされたと思われます。
山田家は本来は農家であって、菜種油の製造販売は兼業ですから、ただ忙しいと言うだけでなく、当時の農家が置かれた社会階層の中での低い地位とその惨めさも痛感したと察せられます。
このまま書き続けると、創作短編が創作長編になりますので、少し先を急ぎましょう。
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