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中国駆け足旅行 コメント -1/2 [和田の泊りより]



村尾さんのコメントに対するコメント返し


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昭和16年に北京へ行った折は天津で上陸して汽車で北京まで、昭和19年に帰国するときは北京から大連まで汽車でした。
勿論総てを覚えているはずはいないのですが、汽車が汽笛ではなくて、大きな釣鐘を鳴らしながら疾駆したことは覚えています。
地平線を紅に染める夕日、遮るものが何もない大平原、鐘をゆっくりと連打して走る汽車。TVドラマでも再現されない昔の風景です。
あの天津・北京、北京・大連を結ぶ鉄道は満鉄の支線だったのか、それとも別の線か、今は思い出せません。by
村尾鐵男
(2012-07-03 08:27) 



Ø  
旧満鉄の地図があったので添付します。

 1.jpg        
2.jpg






4.jpg3.jpg
出典は「日本鉄道旅行地図帳(新潮社版)」です。クリックで地図を表示、更クリック

で拡大します。




これを眺めながら昔を思い出して下さい。往きの天津(塘沽碼頭上陸?)から北京迄は京山幹線一本道ですが、帰りは北京から奉天迄行ったのか、あるいは手前でバイパスして大連へ出たのか判りませんね。

鐘を鳴らしながら走ったとのことですが、米国では今でも機関車牽引の客車列車は駅に近付くと鐘を鳴らします。西部劇の頃の名残でしょうね。満鉄も設計陣は米国で勉強した人が多かったようで米国の影響が大きかったと思います。
     
                                           
 
月川@神戸


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コメント 2

村尾鐵男

あの鐘の音が、何とも表現が難しいのですが、素晴らしい響きでした。激しく連打するでもなく、間延びして響くのでもなく、機関車の運転台から綱を引いて鳴らしているのでしょうが、適度な間隔で周辺の平原に響き渡ります。
おぼろげな記憶ですが、鐘は運転台の直前、ボイラーの真上にありました。
私の両親共に日本人社会の中にいて中国語は片言で、北京で生まれた弟は未だ幼児でした。母の判断で日本人幼稚園を三日で辞めた私が近所の床屋の女の子と毎日遊び、子供言葉ですが、達者に北京語の子供言葉を駆使しました。汽車が駅へ着く度に窓を開け、飲み物と駅弁を買うのですが、足早に駆ける駅弁売りを大声で引き止めたのが私の役目でした。残念ながら、当時の北京語は今は忘れてしまって思い出すこともできません。
by 村尾鐵男 (2012-07-05 07:21) 

ぼくあずさ

月川さん
満鉄地図、大変興味深く拝見しました。
父が最初に兵役に就いた羅南(朝満国境に近い日本海の港町)
、極寒の地で結氷した豆満江を戦車が走行したと母から伝え聴いて
います。
by ぼくあずさ (2012-07-06 16:20) 

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