創作短編(44):直江兼續が詠む漢詩 -4/12 [稲門機械屋倶楽部]
2012-02 MWE36 梅邑貫
この「逢恋」も、前に掲げた「元日」と同じに、慶長七年(1602年)二月二十七日、亀岡文殊大聖寺の文殊堂で催された詩歌の会で詠まれたもので、前の「織女惜別」とよく似た作りになっています。
逢戀
風花雪月不関情
邂逅相逢慰此生
私語今宵別無事
共修河誓又山盟
逢恋(ホウレン)
風花雪月(フウカセツゲツ)情に関せず
邂逅(カイコウ)し相逢(アイオ)うて此の生を慰む
私語して今宵に別れて事なし
共に河に誓い、又、山に盟して修む。この「逢恋」も、前に掲げた「元日」と同じに、慶長七年(1602年)二月二十七日、亀岡文殊大聖寺の文殊堂で催された詩歌の会で詠まれたもので、前の「織女惜別」とよく似た作りになっています。
繰り返しで恐縮ですが、直江兼續と船(セン)の夫婦は戦国から江戸初期の一般的な男女関係からは想像も出来ぬほどの仲睦まじい夫婦でした。しかし、「織女惜別」に「逢恋」が続くと、直江兼續の研究者は、「やはり何処かに愛妾か側室が隠されていたのではないか」と疑って止みません。その根拠となるのが、お船の方が再婚であるのに、兼續が初婚の婿入りであり、加えて妻であるお船の方が年上であったとの事実です。
一方で、もう少し客観的に観れば、当時の風潮として、男は愛妾にしても側室にしても正妻に隠す必要はまったくないことで、やはり「逢恋」も「織女惜別」も直江兼續の想像上の作品と見るべきでしょう。
直江兼續は六十歳で亡くなっていますが、その後の二十年を直江船は元気に生きて、徳川幕府から与えられた鱗屋敷で夫兼續が遺した文や漢詩を整理して出版していますから、やはり仲睦まじい夫婦だったと言えます。尚、鱗屋敷の跡は今の東京警視庁です。
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