GW 終了 [稲門機械屋倶楽部]
甲斐さんと皆さんへ ・・・ 5/07 11:30 村尾
長大な連休中、何処へも行かずに、皆さんからお送りいただいた写真やら資料のメールにも反応せず、前々回の時々懇で甲斐さんから頂戴した「航空テクノロジーの戦い」に読み耽りました。文庫本でほぼ400ページ、視力低下甚だしい昨今、細かい活字を追って、昨夜、読了しました。
ところどころに甲斐さんが書き込んだ鉛筆の線が残り、「甲斐さんはこの部分に関心を持ち感心された」のかと察して読み進みました。
海軍航空廠は、度々名を替え、終戦近くには富士の裾野とか桐生へ疎開していますが、本拠は吾等が仲間西島邸の近くです。
「第8章 アメリカに遅れた艤装技術」は私も実体験として大いに頷けました。戦後16年経って、私が初めてアメリカ製旅客機に触れたとき、油漏れもなくエンジンは常に乾いており、電線やホース等々、総てが堅牢な造りになっていて驚きました。消耗部品と呼ばれるガスケットとか小さなボルト・ナットの類が実に良く造られていました。当時、私のボロ車もバイクも、常に油漏れで汚れ、点火栓の近辺を拭いていて幾度も感電しました。
後年、昭和40年代半ば、富士重工の宇都宮工場へ仕事で出かけた折、戦時中の中島製「隼戦闘機」の実機が密かに保存されていて、操縦室へ入らせてもらいました。この隼のエンジンの下、床に大きなオイルパンが置いてあり、エンジンから潤滑油がポタポタと落ちていました。
戦後、海軍航空廠の技術者多数が当時の鉄道省の研究所へ移っていることは話には聞いていましたが、実名入りの文章で読むのは初めてです。
この「明星」は、日経で読んだのですが、生駒山の上空で試験飛行を行い、ある速度に達すると「ポー」と音を発したそうで、偵察機が音を発するのは敵に偵察機接近を教えることになるので、どうにかしなくてはと考えている内に終戦になりました。明星は縦に二人が乗りますが、試験飛行中は前部に操縦士だけが乗り、後部の偵察員席は開いたままです。木製の機体上部に穴があり、そこへ空気が流れて竹笛と同じになって「ポー」と鳴りました。
’56年製のオートバイNSU MAX250のエンジンは油漏れが皆無でした。
当時すでにドイツのメーカーは国産なのか米国からの輸入なのか知りませんが、よいシール剤を使用していました。
出張が始まったころのソウルの道路は漏れた油で真っ黒でした。すでに日本ではエンジンからの油漏れは解決していましたが。
FDのタービン工場では事情は知りませんが特殊な潤滑ペーストをドイツから輸入していました。今では国産品があると思いますが。
by ぼくあずさ (2012-05-07 12:27)