創作短編(51): 板倉勝明と遠足 -6/7 [稲門機械屋倶楽部]
2012-04 WME36 梅邑貫
この地球儀は今も安中市の指定文化財として大切に保存されており、大川融斎が高崎の達磨屋に張子の地球儀を作らせ、その表面に自ら筆で世界地図を描いたものです。
安政二年(1885年)の歳が明けて早々、安中の江戸表屋敷に国許から書状が送られて来ましたが、それは安中の郡奉行山田三郎から藩主板倉勝明宛のものです。
国許へ容易く戻れない藩主板倉勝明へ、国許の施政を託した郡奉行山田三郎が、事後了解や事前了解を求め、日々の出来事をも伝える文書で、儒者らしい端正な書面です。
読み進む内に、板倉勝明は通常の施政報告ではないある箇所に目を留めました。
「家中の小林なる者より、殿が心血を注がれおる造士館、これ安中に欠かすべからざるものなれど、士たる者、すべからく身体の鍛錬をも怠るべからずと申し来たり候」
「さらに、この者上奏せり。少なからざる安中の士により、城門より碓井峠の山頂、熊野権現まで遠足を致すは如何なりやと。これ、速きを競うにあらずして、武具着装致して碓氷峠まで着到致すを旨とするものにて候」
「遠足」とは「トオアシ」と読み、「エンソク」ではありません。安中城の位置から碓氷峠山頂までは高度差でほぼ1000mがあり、又、その距離はほぼ七里半、約30kmとなります。
板倉勝明も決して儒学一辺倒であったわけではなく、譜代大名として、幕府危急の折には戦役も義務付けられていることもあって、乏しい財政を遣り繰りして武器の近代化を図り、戦闘力を高めることに意を注いでいました。しかし、国許からの書状に記されているように、武士たる者、先ず身体が頑健でなくてはならず、「遠足」にはまったく異存なく、膝を叩いて「よき着想なり」と幾度も頷きました。
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