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創作短編(42):板額御前 -10/10 [稲門機械屋倶楽部]

                         2012-04 WME36 梅邑貫

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 このとき、源頼家は二十歳を二歳か三歳越えた年齢であり、一方の浅利義遠は五十歳を二、三歳越えておりましたが、頼家は父親のような浅利義遠をからかってみたくなりました。

「されば与一、急がねばならんのう。その方、そろそろ枯淡の境地に至りおるであろうからのう」

「はっ。お館様のお許しがございますれば、この与一、努めて精を出しまする」

  武将達は浅利義遠の一言に笑い出しそうになりましたが、浅利義遠の真剣な面持ちと、平然と落ち着いて端座する板額御前の様子に圧倒されて、誰となく頷いておりました。

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「許す。板額御前とやらを甲斐へ連れ帰るがよい」

「有難きお言葉、まことに忝(カタジケノ)うございまする」と、浅利与一義遠は改めて平伏し、将軍源頼家の気が変わらぬ内に大蔵御所を退出し、急ぎ屋敷へ戻りました。

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 その翌朝早く、未だ陽も昇らぬ内に、馬上に弓矢を背にする浅利義遠と同じように弓と矢を背負って馬上にある板額御前が鎌倉を出立し、速足で鎌倉を後にして北へ向かいました。

  浅利与一義遠の本拠は甲斐國八代郡浅利郷で、甲斐國の南部、笛吹川の南岸に位置しますが、現在は甲府市の南に隣接する山梨県中央市の一部になっております。

 浅利郷は鎌倉からもそれほどの距離がなく、富士山を北側へ廻って、精進湖の辺りから北上すれば容易に達することができます。

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 板額御前は浅利義遠の妻となって甲斐國で余生を送ったと伝えられますが、詳しいことは判りません。又、浅利義遠との間に子を産んだかどうかも定かではありません。

 しかし、平安時代末期から鎌倉時代の初期に亘って、越後に板額御前と呼ばれた女武者、それも強弓の技を身に着けて、合戦の場で大勢の男の命を奪い、後に甲斐國で浅利義遠と共に余生を楽しんだ者が存在したのは事実です。                              ()


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