金沢八景 -2/2 [フリューレン村だより]
.by ぼくあずさ
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金沢図書館で少し調べ物をしてから瀬戸神社前の国道16号線を隔てた平潟に突き出た琵琶島神社を参詣する。境内に「武州金沢八景」の説明板がある。
写真はクリックで拡大します。
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小夜雨(こずみの やう) - 手子神社(小泉弁財天)
称名晩鐘(しょうみょうの ばんしょう) - 称名寺
乙艫帰帆(おっともの きはん) - 海の公園より内陸の寺前地区の
旧海岸線
洲崎晴嵐(すさきの せいらん) - 洲崎神社
瀬戸秋月(せとの しゅうげつ) - 瀬戸神社
平潟落雁(ひらがたの らくがん) - 平潟湾
野島夕照(のじまの せきしょう) - 野島夕照橋付近
内川暮雪(うちかわの ぼせつ) - 内川入江(能見堂の解釈)または
瀬ヶ崎から九覧亭にかけての平潟湾
. (金龍院の解釈)
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国道16号線の片吹交差点から東へ桜並木の坂を登り、道なりに金沢三山の中腹を右に巻いて海の公園へ向って一直線に坂を南下すると海の公園が埋め立てられる以前の海岸沿いの道になります。此の辺りは乙艫海岸と呼ばれた海水浴場でした。現在は伊藤博文金沢別邸がある野島の北半分に乙舳町の地名が残っています。
平潟湾の変貌は目を見張るものですが、昔の地形は想像を越えます。
それほどの大昔ではありませんが、私の親戚が銀座に住んでいました。今の資生堂ビルの辺りです。
戦後間もなく、先ず日当りがなくなり、その内に野菜や魚が買えなくなりました。子供達が慢性的な風邪に罹り、モヤシのような身体になって来たので、体育大学の学生を家庭教師にして、勉強ではなく、家の中で体操をして、銀座通りで駈足をさせました。
別の親戚は築地魚河岸の近くに住んでいましたが、近所の八百屋がなくなり、銀座松屋までホウレン草やタマ葱を買いに行きようになり、やがて京王線沿線へ越しました。
金澤文庫と金澤八景、これ以上の変貌がないように祈ります。
by 村尾鐵男 (2012-04-15 11:05)
近くにいながら行っていない資料館etc.沢山あるんですよね。
これからも、少しずつ行かないと!!と改めて思いました。
それにしても、「東北観光博の誤訳」には呆れますね@@
by カリメロ (2012-04-15 11:29)
カリメロさん
ご家族での新車ドライブがお忙しくてお預けだそうですね。
街中で濃いエビ茶色の新車を見かけることがあります。
村尾さん
終戦前までは広い範囲が蓮田だったそうです。江戸時代の干拓は
塩害で稲作はできなかったそうです。泥亀バイパス(国道16号線)
は昭和41年完成。当時は市電の終点磯子辺りの海は墨絵のように
美しい海岸でした。我が街も悪名高き堤(西武)が大規模開発した
のですから、私も自然破壊に加担したことになります。
皆さん
ご来訪とnice ありがとうございます。
by ぼくあずさ (2012-04-15 12:38)
フリューレン村だより:金澤八景(2/2)が掲載されたから調べ続けているのですが、「乙艫帰帆」の意味がどうしても判りません。
「帰帆」とは船が戻ってくる港とか浜の意味ですが、「乙艫」がよく判らないままです。
揚げ足取りではないので誤解されないようにお願いしますが、「艫」は「舳」ではないかと想像されます。「艫(トモ)」と「舳(ヘサキ)」はこの文字が日本へ渡来してから、いつの間にか混同されて遣われるようになり、船の船首も「艫」と呼ばれることがあります。
いずれにしても、「乙」の遣われ方もよく判りません。「若い」とか「新しい」とか「子供」、或いは「第二」の意味で遣われるのですが、「艫」のどのような状態を指すのか判りません。大変難しい四文字です。
by 村尾鐵男 (2012-04-16 18:40)