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創作短編(41):支倉長徑、後に常長 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2012-03 WME36 梅邑貫

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  支倉長徑はその二年後、元和八年(1622年)七月に失意のまま五十歳で没しております。

 長徑と終始行動を共にしたルイス・ソテロは、キリシタン禁令下の日本で、伊達政宗の幕府との折衝で赦されてフィリピンへ戻りますが、元和八年(1622年)に密かに長崎へ上陸して捕らえられ、伊達政宗による再度の赦免願いも効を奏することなく処刑され、殉教者となりました。

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 尚、二度の太平洋横断に堪えたサン・ファン・バウティスタ号は、支倉長徑の帰途、フィリッピンへ到着した際に、西太平洋への進出目覚しいポルトガルやオランダへの防備を強化する必要性に迫られていたスペインに売却され、支倉長徑と遣欧使節団は別のスペイン船で帰国しており、サン・ファン・バウティスタ号のその後の消息は不詳です。

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 寛永十七年(1640年)、支倉長徑が没して二十年後になりますが、長徑の息子の常頼はその家人にキリスト教徒がいたことを問われて処刑され、支倉家はここで一度は断絶しております。

 しかし、寛文八年(1668年)、長徑の孫の常信の時代になって赦免され、支倉家は再興されました。

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 支倉長徑は支倉常長と称されるのは、長徑が没した後のことで、キリシタンに改宗したことが徳川幕府のキリシタン禁令に触れることから、子供達が父親の名を替えました。

支倉常長は自ら望んでエスパーニャとローマへ命懸けの航海をしたのではなく、あくまでも仙台藩士の一人として主命に従っただけですから、常長だけでなく、子供も孫も無念の思いを強くしていたと推測され、家名再興は当然のことであったろうと思われます。 

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話題になることの多い最近の中学校用歴史教科書では、支倉常長が17世紀初めに遣欧使節団を率いたことが数行で記されているだけで、太平洋を横断した偉業や石巻で大型船が建造された事実は無視されています。                  (了)


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