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創作短編(41):支倉長徑、後に常長 -2/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2012-03 WME36 梅邑貫

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  スペイン船の漂着とその損壊を聞いた徳川家康は三浦按針に代わりの船を建造するよう命じました。

 三浦按針は英国人でオランダ商船リーフデ号(De Liefde300)の航海長であったウィリアム・アダムス(William Adams)です。慶長五年(1600)三月十六日、リーフデ号は豊後(大分県)の臼杵(ウスキ)に漂着し、アダムスは捕らえられて大阪の豊臣秀頼の下へ送られて投獄され、しかもイエズス会からは殺せとの嘆願が幾度も届けられました。

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 秀吉亡き後、遺子の秀頼を支えた五大老の内、筆頭格であった徳川家康はイエズス会の要請に耳を貸すことなく、アダムスを自分の領地である江戸へ送り、自らの外交顧問として起用し、二百五十石を与えて旗本に登用し、三浦按針と名乗らせました。

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 三浦按針は伊豆の伊東に船舶建造用のドックを設け、既に幾隻かの船を造っていましたが、家康の命で120トンのガレオン船を建造して、これがドン・ロドリゴに提供されました。この船は「サン・ブエナ・ヴェントウーラ(San Buena Ventura)」と命名されてメキシコまで無事に航海し、以後、徳川幕府とスペインとの交流が始まり良好な関係が保たれます。

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「六右衛門、頼みがあるのだが」と、仙台藩主伊達政宗は支倉長徑を呼び出して伝えました。

「はっ。何なりと仰せ付け下さりませ」

「エスパーニャへ行ってくれんか」

 これは慶長十七年(1612年)のことで、このとき伊達政宗が四十五歳、支倉長徑は四十一歳になっていました。その分別のある支倉長徑も藩主からの突然の命に驚きを隠せません。

「エスパーニャと申さるるは、あの遠い、海の彼方の異国のことでございまするか」

「左様、遠き異国のエスパーニャじゃ。これはな、わし独りの好みではのうて、駿府の大御所様からの直接の下知じゃ。六右衛門はエスパーニャへ赴き、交易の段取りを致すのじゃ。よいな」

「はっ。しかと承ってござりまする。さりながら」

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ぼくあずさのComment                                                                           桜の季節になると三浦按人の墓がある丘で花見をする私。その彼が徳川家康の外交顧問であった英国人であることは知っていた。                イエズス会が殺そうとしたとの記述が気になり調べた。リンク先がいかなる目的で書かれたか、真実なのか知らないが、興味深いので掲載する。

真の影の権力者 イエズス会中枢部とバチカン内部                  http://www.youtube.com/watch?v=jePMp9MFLKI 


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ぼくあずさ

実家の材木屋で住み込みで働いていた2人の月ノ浦出身の若者から、支倉常長の慶長遣欧使節団を載せた船が出港したことは聴いていた。だが、伊達政宗にお咎めが及ばなかったのか疑問のままでした。
by ぼくあずさ (2012-03-20 04:17) 

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