創作短編(40):渡辺崋山 -5/8 [稲門機械屋倶楽部]
2012-03 WME36 梅邑貫
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天保三年(1832年)五月、三河田原藩の藩主三宅土佐守康直は渡辺崋山を年寄役末席に登用します。
年寄役末席とは家老のことですが、渡辺崋山は別邸に住む前藩主の弟三宅友信の取次役であり、友信と共に蘭学を学び、一方で、この頃にますます腕を上げた画業にも専念したく、多忙を極める家老への就任を望んではいませんでした。
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この天保三年(1832年)、渡辺崋山は四十歳になっていたのですが、藩主の三宅康直は文化八年(1811年)の生まれですから、二十二歳であり、姫路藩からの持参金で財政状態は一息着いたとは言え、十三代将軍徳川家定のための日光代参も行って巨費を支出しており、依然として田原藩の金庫は軽い状態にありました。藩主の康直にしてみれば、先代からの重臣であり、田原藩を知り抜いている渡辺崋山は是非とも近くに置いておきたい存在でした。
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「崋山殿、何か妙案はござらぬか」
「妙案とは申せませぬが、引き続き倹約に励み、有能の士を家格に拘ることなく登用し、農作物の収穫を増やさねばなりますまい」
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この調子で書いていると、創作短編が創作長編になりそうですから、少しばかり急ぎましょう。
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翌年の天保四年(1833年)、日本中の農作物が不作になり、天保十年(1839年)まで続くのですが、これを後世になって「天保の大飢饉」と言い、特に天保六年(1835年)から天保八年(1837年)までの三年間は人口が大幅に減るほどの飢饉に見舞われました。
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渡辺崋山は、天保の大飢饉を予測したわけではありませんが、家老に就くや直ぐに「報民倉」を作って食糧を備蓄しました。三河田原藩では、この「報民倉」から食糧を放出することによって、大飢饉の被害を他の藩よりは軽くすることができました。
さらに、渡部崋山は農学者の大蔵永常を招き、農作物の収穫と種類を増やす努力もしています。この大蔵永常は宮崎安貞や佐藤信淵と並ぶ農学者で、豊後國日田の蝋職人の子でした。
天保の大飢饉が始まる前と後の日本全国の人口を較べてみましょう。
天保五年(1834年) 27,063,907人
天保十一年(1840年) 25,918,412人
天保の大飢饉で、日本の人口は 1,155,500人が減り、ほぼ5%に相当します。特に陸奥と北陸諸国の人口減が激しく、飢饉の深刻さを物語ります。
by 梅邑貫 (2012-03-09 14:12)