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創作短編(40):渡辺崋山 -4/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2012-03 WME36 梅邑貫

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  取次役(トリツギヤク)とは御側御用取次(オソバゴヨウトリツギ)のことであり、幕府と諸藩ではその仕事の内容が若干異なります。三河田原藩に於ける「取次」の正確な業務分掌が判らないのですが、取次役は大きく分けて二つに分けられます。先ず一つは、藩主の秘書官のような役割で、藩主の意向を諸々の部門に伝え、又、各部門からの上奏を取りまとめて藩主に伝えます。もう一つは、藩主の私的な部分、即ち日常の生活に於ける補佐役であります。

 いすれにしても、家格とか石高に関係なく、藩主が最も信頼し、且つ有能な者が任命されました。

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 渡辺崋山は幕府の学問所である昌平黌で学ぶだけでなく、貪欲に学問を求めた姿は藩主も知っており、その有能さに申し分がありません。加えて、藩主三宅備前守康明が幼少の頃の伽役であった渡辺崋山は、康明が育つ過程も知り尽くしており、取次役としては他に較べられる者がおりません。

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 ところが、その藩主三宅備前守康明が文政十年(1827年)に、後嗣がいないままに急逝し、その後、三河田原藩の重臣が、次の藩主に誰を推すかで二つに割れます。

 渡辺崋山は「康明様の異母弟であられる友信様がおられる。友信様をおいて、他に藩主と仰げる者はおらん」と主張し、賛同者もかなりおりました。

 しかし、別の考えを持つ者もおります。それは三河田原藩の財政状況が逼迫していることに鑑み、播磨國姫路藩の藩主酒井忠實(タダミツ)の六男を持参金付で迎えようとの発案でした。

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 この両派の論争はかなり激しいものであったようですが、田原藩の財政状態が改善されるとの期待は大きく、姫路藩主の六男を三宅康直として迎えることになり、渡辺崋山達が推した三宅友信には前藩主としての待遇を行い、又、友信の子を次期藩主とすることも決め、小石川と巣鴨の間に友信のための別邸を建てました。

「崋山殿、まことに相済まぬのう」と、三宅友信は礼を言い続け、崋山の勧めで蘭学の習得に努めました。一方で、崋山と姫路藩から来た三宅康直との関係は友人同士のように良好でありました。


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