創作短編(40):渡辺崋山 -3/8 [稲門機械屋倶楽部]
2012-03 WME36 梅邑貫
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文化五年(1808年)、十六歳になっていた渡辺定静は江戸藩邸への出仕を命ぜられました。藩主の跡継ぎの伽役を務めたことは、藩主の近くに存在することであり、利発な定静が藩主の覚えるところとなったと思われます。
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この頃、定静は猛然と学問に精を出し、田原藩きっての儒学者から朱子学を学び、田原藩の江戸上屋敷へ出仕した二年後の文化七年(1810年)、昌平黌(ショウヘイコウ)として知られる幕府の学問所へ通い、塾長の佐藤一齎や松崎慊堂(コウドウ)の薫陶を受けます。松崎慊堂は儒学者佐藤一齎に優ると言われる大儒で、渡辺崋山が後に蛮社の獄に囚われたときに、その人となりを説き弁護する書を老中水野忠邦に出してくれたほどの人物で、松崎慊堂にとって渡辺崋山は愛弟子でありました。
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定静はさらに佐藤信淵(ノブヒラ)に師事して農学を習得します。佐藤信淵も儒学の大家でありましたが、学問領域を広げ、いつしか農業に関する研究者となっていました。
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文政六年(1823年)、渡辺崋山が三十歳のときですが、田原藩の藩士の娘である和田たかを妻に迎えますが、当時としてはかなりの晩婚で、おそらく渡辺家の貧窮故のことと察せられます。
その二年後、文政八年(1825年)に病気を繰り返した父が没し、渡辺崋山が家督を相続し、その頃には八十石まで回復していた家禄も継ぎました。
文政九年(1826年)のある日、渡辺崋山は藩主三宅備前守康明(ヤステル)に呼ばれました。
「定静殿、頼みがあるのだが」
「殿、某(ソレガシ)を呼ぶに、殿は不要にござりまする」
藩主三宅康明はかつて子供の頃の渡辺崋山が伽役を務めた元吉であり、このとき、藩主の三宅康明は二十七歳、渡辺崋山は三十四歳です。伽役は遊び相手と書きましたが、年齢に七歳の開きがあると、指導教官の役目を果たすことになります。
「では、定静、吾の取次役を務めてくれんか」
「はっ。謹んでお仕え致しまする」
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