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創作短編(40):渡辺崋山 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                          2012-03 WME36 梅邑貫

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時       :天保年間(1830年より1843年)

場所     :三河國田原藩と江戸

登場人物 :渡辺崋山ほか

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 渡辺華山は三十五歳の頃に名を書き換え、「華」を「崋」として渡辺崋山となりました。

WatanabeKazan.jpg ところで、読者諸氏は渡辺崋山をどのような業績で記憶されているでしょうか。画家か、それとも蘭学者か、或いは開国派の中心的論客か。

 渡辺崋山が描いた絵画は今でも保存されているものが多くあります。創作短編(13)「代官はパンの祖」では、渡辺崋山が開国派の集団である尚歯会の一員であり、韮山代官江川英龍と親しかったと記し、又、創作短編(25)「雪TakamiSenseki.jpg華図説」では、雪の殿様と呼ばれた古河藩主土井利位(ドイ・トシツラ)の家老を務めた蘭学者の鷹見泉石の姿を描いた画家でもあり蘭学者でもあると記述しました。写真上は渡辺崋山、下は鷹見泉石。

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 渡辺崋山は寛政五年(1793年)九月に生まれ、天保十二年(1841年)十月に四十九歳で没していますが、三河國田原藩の家老でした。

 田原藩は、今は愛知県田原市ですが、渥美半島の東部で、豊橋から豊橋鉄道に乗って35分で終点の三河田原へ着きます。

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 渡辺崋山が三河田原藩の家老となるのは天保三年(1832年)五月のことで、田原藩の藩主は十一代の三宅康直でした。このとき、藩主三宅康直は二十二歳、渡辺崋山は四十歳でした。

「如何致すべきかのう。藩の蔵は苦しいまま。それも、今に苦しゅうなり申したのではない。代々、永く苦しんでおる」

「某(ソレガシ)に策がございまする。先ずは収穫を上げ、有能なる藩士を家柄に拘らず登用致すことでございまする」

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 三河田原藩は僅かに一万五千石の小藩でありました。通常、一万石ほどの小藩は陣屋を構えるのですが、三河田原藩は田原城を持ち、藩士の数も多く、加えて渥美半島に立地する地理的条件のために風水害にも度々苦しめられていました。


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コメント 2

ばん

渡辺崋山のような方が現在いれば、世襲制が多い国会議員もいなくなりますネ。
by ばん (2012-03-05 09:18) 

ちゃーちゃん

こんにちは‼
藩主、三宅康直や渡辺崋山の様な人が現在の国政を司ると良いですね。上↑の方と同じ感想です・・・
by ちゃーちゃん (2012-03-05 11:50) 

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