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創作短編(39):吉原を創った男 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2012-02 WME36 梅邑貫

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「いかにも遠く不便だのう」と、吉原で遊郭を営む者は皆が不満を抱きました。浅草の浅草寺の北方で、もう少し先へ行くと小塚原の刑場があり、何とも陰気な場所でした。今は東京都台東区日本堤と呼ばれる一画ですが、当時、山谷堀と言われる川が南北に流れており、新吉原へ通う粋客は専ら舟を利用しました。

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 私が高等学校へ入学したのは昭和28年(1953年)ですが、入学当日、担任教諭から「歩いて通う者はいるか」と問われ、私は「たまに歩きます」と答えました。

「どの方向から歩くのか」

「新宿御苑前から歩きます」

「そうか。新宿二丁目を抜けるのか。脇目をせず、足早に歩け」

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 売春防止法は昭和31年(1956年)に制定されて、二年後の昭和33年(1958年)から施行されますが、当時の東京都内には吉原、新宿二丁目、玉の井と鳩の街(共に東向島)に遊郭と公娼が残っていました。

 私は今の防衛省の近くに住み、天気の良い日には新宿御苑に隣接する高校まで歩いたのですが、赤センと呼ばれた新宿二丁目を歩いて抜けました。

 赤センと青センがありましたが、これは政府公認の遊郭地帯を警察が地図に赤い線で囲ったことによります。青センは非公認の一帯でした。

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 新吉原は明暦の大火の後から昭和33年までのほぼ四百年間も続いた遊郭ですが、庄司甚内に先見の明があったのかどうか、ともあれ徳川幕府よりも永く続きました。

 庄司甚内、或いは甚右衛門は江戸の三大悪党に数えられますが、他の二人の甚内に較べれば、それほどの悪党振りは発揮しておりません。ただ、商売が商売であっただけに、少なくとも日本の正史に名を残す存在ではなく、江戸時代の裏面を飾った一人でした。

                          (了)


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