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創作短編(39):吉原を創った男 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2011-11 WME36 梅邑貫

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  時代が前後しますが、寛永十五年(1638年)、吉原の遊女屋で働く男達十一人が吉原の大門の側で磔(ハリツケ)にされる事件が起きて、江戸っ子達が大いに驚きました。

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 寛永九年(1632年)、幕府は吉原の夜間営業を禁止するのですが、遊郭が夜間の営業を禁止されては堪らず、一方で吉原以外の場所にある湯女風呂はますます繁盛していました。

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 幕府は湯女風呂で働く湯女の数を三名に制限していましたが、湯女とそれ以外の女性を見分けることは難しく、事実上は制限が無いに等しい状況でした。夜間営業を禁止された吉原は、苦肉の策として、夜だけ暇になった遊女達を密かに湯女風呂へ派遣しました。

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 湯女風呂は、庄司甚内による吉原の開業を認めると同時に禁止されるのですが、その後、幕府の対応は二転三転を繰り返し、吉原で磔事件が起きた頃は湯女風呂が公認されていました。

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 吉原から湯女風呂へ遊女が派遣されていると知った幕府は、これに関った者を厳しく取り調べ、見せしめもあって極刑に処しました。

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 明暦三年(1657年)正月十八日午後一時頃、本郷丸山台から出火し、駿河台から日本橋までを焼き尽くし、翌十九日の未明にようやく鎮火しましたが、鎮火して間もない午前十一時頃、今度は小石川新高番町の大番与力衆の宿所から出火し、神田から竹橋、さらに江戸城へと燃え移り、江戸城の天守閣、本丸、二の丸、三の丸を焼失させて午後六時頃にようやく鎮火します。ところが、二番目の火事が止む前の午後四時頃、麹町五丁目から出火して、外神田、愛宕下へと火勢が広がり、翌二十日の午後八時頃にようやく鎮火します。

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 明暦の大火で江戸の六割が燃え落ち、十万を越す被害者が出たと伝えられていますが、吉原も勿論灰燼に帰しました。

この後、吉原は浅草の浅草寺の北側へ移転しますが、明暦の大火で移転したと伝えられているのは間違いで、その前年に幕府から移転を命ぜられていました。この頃、庄司甚内が存命であったか否か、判然としませんが、葭原の吉原を元吉原と言い、新たに移転した吉原を新吉原と呼びます。


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ぼくあずさ

磔刑は想像を超える残酷なもの。見せしめの地獄図。
私の寛永年間のイメージが完全に崩れ去りました。
by ぼくあずさ (2012-02-21 21:00) 

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