創作短編(39):吉原を創った男 -4/8 [稲門機械屋倶楽部]
2012-02 WME36 梅邑貫
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葭原は庄司甚内がもっと縁起の良い名にしたいと考え、葭を吉と書き替えて吉原と呼ばれるようになりますが、葦が生い茂った湿地帯でした。
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この吉原は今の東京の真ん中、日本橋の小網町と人形町の間の辺りです。嘉永六年(1853年)の江戸切絵図、即ち、当時の区分地図を調べると、吉原の南端に橋が架けられており、親父橋と名付けられていました。吉原の周囲には土手が築かれ、さらに堀や川で囲まれて、甚内が町奉行から命ぜられたように、吉原は周辺の街々から隔絶されていました。
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甚内は駿河から江戸へ入るときに、若い者を三十名ほど連れて来ておりますが、彼等は甚内を親父と呼んでおり、吉原へ通ずる橋はいつしか親父橋と呼ばれるようになったと伝えられます。
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庄司甚内はこの若者達を督励して遊郭「吉原」の造成に精を出しますが、吉原が形を整えて開業したのは元和四年(1618年)で、慶長十七年(1612年)に幕府の許しを得てから六年が経過しており、しかも徳川家康は二年前の元和二年(1616年)四月に没しておりました。
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庄司甚内の「吉原」は大いに繁盛しましたが、ときの幕府が庄司甚内に特権を与えたことには裏面があります。それは吉原から上納金を取ったことです。
幕府の公式文書にはまったく触れていないのですが、二百数十年後の明治維新で誕生した明治政府が「今まで通りに売上の一割を上納せよ」と命じています。「今まで通り」とは「徳川幕府時代と同じように」との意味です。
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明治政府は、同じく深川の遊郭組合にも年に一万五千両の上納を命じていますから、深川よりも規模の大きい吉原からの上納金が大きかったであろうと察せられます。
江戸時代以降、日本政府は常に財政に苦しみますが、今の時代に遊郭を認めることはできず、震災地にせめてカジノを開こうとの発想は新旧の為政者に共通しているようです。
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ぼくあずさのComment
手違いで掲載が前後しました。お詫びします。
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