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創作短編(38):江戸の悪党 鳶沢甚内 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                              2012-02 MWE36 梅邑貫

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時    :天正十八年(1590年)より暫くの間

場所  :江戸

登場人物:徳川家康と鳶沢甚内

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 江戸幕府を開いた徳川家康は、元々は三河国岡崎を拠点としていたのですが、元亀元年(1570年)に岡崎を嫡男信康に譲って、自身は浜松へ移りました。

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 浜松の当時の地名は曳馬(ヒクマ)で、浜松城は曳馬城と呼ばれていました。曳馬は馬を曳くことであり、これは戦いに敗れて馬を曳いて帰ることを意味して縁起が悪いと考えた家康は濱松と名を替えました。

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 それから三年、元亀三年(1573年)、三方ヶ原(ミカタガハラ)の戦いがありました。岡崎から浜松への移動は武田信玄の侵攻に備えたものですが、現実には武田信玄は浜松を攻めず、家康は信玄の巧みな作戦に翻弄され、浜松城から誘い出されて三方ヶ原で戦って大敗北を喫し、家康の終生で最大の惨敗となり、まさに曳馬となりました。しかし、日没に援けられて一命を失わずに済みました。

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 徳川家康は三方ヶ原から浜松へ向かって敗走しますが、途中で腹が減って、農家で粥をもらいますが、後にこの農民に「小粥(コガイ)」の名を与えて庄屋に取り立てます。又、武田軍の追走を逃れるために、途中で祠に隠れますが、乗馬の白い尾が外に出ており、これを見つけて報せた農民には後に「白尾」の名を与えて取り立てました。さらに、徳川家康は敗走の恐怖から馬の鞍の上で脱糞してしまい、そのまま浜松城へ戻り、部下が異様な臭いに気着きました。

「殿、馬の鞍より異なる臭いが致しまするが」

「何を申す、味噌じゃ。馬上で食した握り飯の味噌じゃ」

家康はその場は誤魔化しますが、後に神君と呼ばれるだけのことはあって、直ぐに絵師を呼んで、負け戦直後の肖像を描かせました。

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 両頬が細くなり、目が落ち込み、肩も下がった徳川家康の肖像画は今も徳川美術館で観ることができますが、家康自身もこの絵を常に身辺に置いて、増長して驕ることないよう自らの戒めとしたと伝えられています。


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コメント 1

hanamura

お腹が減って食べた「小豆餅」の店の婆さんが、追っかけて「銭取」などなど・・・浜松の地名には、家康公伝説が、ガンコあるじゃぁにゃぁか?
by hanamura (2012-02-06 20:42) 

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