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創作短編(37):江戸の悪党向坂甚内 -9/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-10 WME36 梅邑貫

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  慶長十八年(1613年)八月十二日、向坂甚内は遂に捕らえられましたが、この凶悪な盗賊を捕らえたのは幕府御先手組の組頭である直参旗本の青山主膳(シュゼン)でした。

  青山主膳は入念に事前の調査を進め、向坂甚内が持病に苦しんでいることを知ります。その持病とは「瘧(オコリ)」です

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 著者梅邑貫はここまで書いて大変困ったことになりました。「瘧」は今や死語になっていて、読者諸氏の大半は御存知なかろうと察したからです。そう言う私も上手に言い換えることができません。そこで旧知の医師に電話で尋ねました

「瘧」とは、間歇性の、即ち、二日か三日の間隔で襲う高熱、発汗、強度の震えで、原因はマラリアとか腎盂炎であると教えてくれました

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 青山主膳は部下の与力や同心を向坂甚内の住処(スミカ)近くに張り込ませて甚内が瘧の持病を抱え、その瘧が起こる間隔も調べ上げ、まさに瘧に襲われて甚内が動けないときに御先手組を突入させて難なく捕らえました。

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 向坂甚内は浅草鳥越の刑場へ引かれて行き、即日処刑されましたが、自ら犯した数々の凶事には反省の色もなく、ただ「瘧」だけは悔しかったようで、「この向坂甚内、霊となりて瘧で苦しむ者を助けん」との言葉を遺したと伝えられます。

 鳥越は今は東京都台東区の浅草橋の一帯ですが、甚内の死後、当時は存在した鳥越川に「甚内橋」が架けられました。凶悪犯の名が橋の名として残る例は大変珍しいのですが、この「甚内橋」を渡ると瘧が治ると信ぜられたからです。

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 慶長五年(1600年)九月に関が原の戦いがあり、慶長八年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に叙任されて江戸幕府を開き、僅か二年後の慶長十年(1605年)四月に秀忠が二代将軍となりました。戦乱の世は落ち着き始め、番方の働き場所が急に狭くなったのを感じていた青山主膳はここぞとばかりに勇み猛りました。


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 大嶋

オコリ、初めて見たじです。 私のPCではこの字は拾えないと思います。
by 大嶋 (2012-01-30 03:41) 

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