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創作短編(37):江戸の悪党向坂甚内 -8/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-10 WME36 梅邑貫

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 宮本武蔵は道場へ戻ると、直ぐに甚太郎を呼び、厳しい口調で申し渡しました。

「甚太郎、新免二天流の修行、これ以上は無用。この道場より直ちに立ち去れ」

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 宮本武蔵に破門された甚太郎は江戸を離れて流浪の旅に出ますが、子供心に懐かしい甲斐の国へ足が向きました。しかし、その途中で、父である高坂昌信と昌信が仕えた武田信玄が戦勝の神として祈った飯綱大権現(イヅナ・ダイゴンゲン)を思い出します。

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 飯綱大権現は今も高尾山薬王院に祀られていますが、甚太郎は高尾山へ登り、飯綱大権現へ詣でました。ここで、甚太郎に飯綱大権現のお告げがあったのか、それとも甚太郎の自らの考えであったのか、定かではありませんが、向坂甚内(コウサカ・ジンナイ)と名を替えました。

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 この後、向坂甚内は箱根の山中に入って旅人を襲い続けますが、暫しして江戸へ舞い戻り赤坂に居を定め、それからは辻斬り、夜盗、賭博と勝手放題でした。

 町奉行が幾度か捕らえようと試みますが、向坂甚内の方が強すぎてどうにもならない上に、捕り手の側に怪我人が続出してしまいました。

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 そこで、幕府は御先手組(オサキテグミ)を出動させました。先手組とは戦闘に際して、真っ先に敵陣へ跳び込む先鋒隊のことで、荒っぽいことで知られていました。

 江戸の治安を守るのは町奉行所の役目です。しかし、この町奉行所は今の警察機能を持ってはいても、役方、即ち文官であり、凶悪犯には心もとない存在でした。そこで、番方、即ち武官の集団である先手組が起用されました。

もっと後の時代なら火附盗賊改方が動員されるのですが、江戸幕府に盗賊改方が創設されるのが寛文五年(1665年)ですが、長谷川平蔵宣以(ノブタメ)で有名な火附盗賊改方となるのは享保三年(1718年)のことで、向坂甚内が江戸を荒らし回っていた頃は未だ盗賊改方は存在していません。


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コメント 4

あゆさこ

まだ、起きてらっしゃるのですね。(*^_^*)わたしもですけど・・・(笑)
by あゆさこ (2012-01-29 01:44) 

ぼくあずさ

あゆさこさん
我が家は夜型で全員まだ起きております。私は起き出して貫さんの
原稿をブログに掲載、これから入浴です。
by ぼくあずさ (2012-01-29 02:01) 

夏炉冬扇

お早うございます。
知らないことがあれこれ示してあってなるほどそうか、でした。謝々。
by 夏炉冬扇 (2012-01-29 06:43) 

hanamura

開幕当時の御先手組は(=戦国武者)強そうですねぇ!
by hanamura (2012-01-29 15:22) 

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