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創作短編(37):江戸の悪党向坂甚内 -6/10 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2011-10 WME36 梅邑貫

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 宮本武蔵は多くを語りませんが、甚太郎に怪しげな邪念があることを見抜いていました。だが、一方の甚太郎は、師匠の宮本武蔵には未だ遠く及ばないものの、恵まれた体格と体力によって、それなりに剣術の技を身に着けました。

 しかし、この甚太郎、父親の高坂弾正昌信ほどの知性もなく、育ててくれた祖父高坂對馬ほどの分別も受け継ぐことが出来ませんでした。

 余談ですが、武田信玄の事跡を語り伝えた「甲陽軍艦」があります。これはおそらく我が国初の軍学書でありますが、高坂昌信が口述したものと伝えられております。

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 甚太郎は、剣術者として自分の精神面が未熟であることに気着いておらず、何故、宮本武蔵から新免二天流の免許皆伝をいつまでも許されないのか不満に思い、自分も人を斬ってみたいと密かに思い続けました。

 再び余談ですが、宮本武蔵の剣術をただ二刀流と言うことが多いのですが、宮本武蔵の本名は藤原玄信(ハルノブ)と言い、長々と記すと「新免武蔵守藤原玄信」となり、武蔵自身は自らの二刀流を新免二天流と呼びました。

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 ある日の夕刻、宮本武蔵が何処かへ出掛けた留守の間に甚太郎は背に一刀を背負って道場を出て柳原土手(ヤナギハラのドテ)へ向かいました。当時は大川と呼ばれる隅田川へ神田川が流れ込む少し手前で、川と並んで柳原通りがあり、その土手に柳が植えられていたのでこの名で呼ばれます。

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「俺は人を斬ってみたい。鍛錬に鍛錬を重ねても、新免二天流の免許皆伝は一向に近着かんではないか。師と木刀で向かい合うても、外の者と討ち合わんことには、己の力は判らん」

 甚太郎は独り呟きながら、背中の刀を手に取って腰に差しました。

「この刀、銘はないが父の形見ぞ。そろそろ鞘から抜いてもよかろう。わしは銘にはこだわらん。だが、吾が腕前も、刀の切れ味も、実際に使うてみんことには判るまい」


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