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創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -13/15 [稲門機械屋倶楽部]

                                                            2012-01 WME36 梅邑貫

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  明治十七年(1884年)、大山捨松は宮内卿伊藤博文から華族女学校を設立するための設立準備委員になるよう要請されて、下田歌子と共にこれを引き受けました。華族女学校は後に学習院女学部となりますが、このとき、捨松はアメリカのアリス・ベーコンに手紙を出して「日本で教職に就いて助けて欲しい」と来日を求め、一方で、伊藤博文の顧問のような立場にあった津田梅子にも協力を求めました。

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 捨松は自分自身が女子教育のための教壇に立つことを願っていたのですが、陸軍の重鎮である大山巌の妻として、教職に就くこと、即ち、働くことはもっての外で、多忙な夫の内助に努め、出来るとしても名誉職以外には考えられぬことでした。

 しかも、いよいよ開校した華族女学校はおよそ捨松が期待したものからはほど遠く、昔ながらの儒学に基づく古い観念を根底とする教育を行いました。

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 アメリカで共に苦労し、捨松には妹のような津田梅子が東京に「女子英学塾」を開いたのはかなり後の明治三十三年(1900年)ですが、この塾は津田塾大学の前身となるものでした。

 津田梅子は塾の経営と運営、それに教育方針に他からの干渉や容喙を受けぬために、一切の資金援助を断り続けました。そのために梅子は苦労を続けるのですが、捨松は梅子の「津田塾」こそが理想の女子教育の場であると認め、自らは勿論ですが、再びアリス・ベーコンを呼び、さらにヴァッサー大学で共に過ごした永井繁子、今は軍人と結婚して瓜生繁子となっていますが、この二人にも声を掛けて、梅子のために無償の奉仕に精を出しました。

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 津田梅子は一生を独身で過ごし、ただただ「津田塾」に人生の総てを注ぎました。津田梅子の父親は幕臣の津田仙であったと既に記しましたが、幕臣と言えば聞こえが良いのですが、ありのままに言えば、善く言っても貧乏旗本ですから、資金に恵まれていたはずがありません。

 その梅子が開いた「女子英学塾」が「津田塾大学」として今日まで永らえ得たのは他ならぬ大山捨松をはじめとする献身的な女性達の下心のない援けがあったからだと考えられます。


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