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創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -9/15 [稲門機械屋倶楽部]

                                                             2012-01 WME36 梅邑貫

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   大山巌は、若い頃に會津若松城へ「焼き玉」を打ち込んだ政府軍砲兵隊長の大山弥助であります。その後、陸軍の軍人として順調に進級し、明治二年(1870年)にはヨーロッパへ赴いて普仏戦争を観戦し、続いて明治三年から六年(1873年)まではジュネーブへ留学しています。

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 明治六年(1873年)、国内では征韓論の是非を巡って政争となり、征韓派の西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平等が一斉に下野して政治が混乱し、これが明治十年(1877年)の西南戦争へと進み、さらに明治十一年(1878年)五月には大久保利通が暗殺されて国内は混乱しました。

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 大山巌は国内が騒然とし始めたことにより、留学を途中で断念して急ぎ帰国しましたが、同郷の志で従兄弟でもある西郷隆盛と戦う苦渋を味わっています。

 大山巌はやはり同郷の薩摩藩士吉井友実の娘沢子と所帯を持って四人の娘を得ていましたが、この沢子が、何時のことか判然としないのですが、明治十六年(1883年)以前に、四人目の娘を出産後に亡くなっています。

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 公務多忙の大山巌には四人の娘の面倒を見てくれる後妻が必要でした。その後妻探しを熱心に進めてくれたのが沢子の父親である吉井友実でしたが、吉井友実も薩摩藩士で、明治政府では主に宮内と工部関係を歩み、明治十五年(1882年)には、短期間ですが、日本鉄道の社長を務めています。

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   吉井友実から縁談を持ち込まれた山川家では、長兄で家長の山川浩が、「會津を責めた大山巌ではないか」と猛反対をしますが、表向きは「山川家は賊軍」であるとして断りました。

しかし、吉井友実も諦めず、次には西郷隆盛の実弟である西郷従道(ジュウドウ、又はツグミチ)を使者に立てました。

山川浩は依然として「賊軍であるから」と固い態度を崩しませんが、西郷従道も粘り強く説得し、「おいどんも賊軍の一人でごわす」と言い、この台詞に、山川浩は「本人が望むなら」と答えました。

ところが捨松は「アメリカ娘」の本領を発揮して、「大山閣下のお人柄が判ってから決めます」と、今で言う互いに人となりを確めるお付き合いを求めました。


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