創作短編(35):謀臣本多正信 -9/9 [稲門機械屋倶楽部]
2011-12 WME36 梅邑貫
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この時代の和議で、城の堀を埋めたり石垣を崩したりすることは一般的に行われたが、儀礼的な意味合いが強く、堀は僅かに埋め、石垣も一画を崩すだけで済ませた。
ところが、徳川方は現地の労働力を多量に動員して、大坂城の外堀も内堀も完全に埋めてしまった。和議に際して、正信が書面での約束を最小限に留めた狙いが、この堀の埋め立てで明らかになった。
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翌年、慶長二十年(1615年)四月二十六日に夏の陣が開戦し、五月七日の茶臼山での最終決戦で徳川家康が勝ち、五月八日に豊臣秀頼が自害して、ここに徳川幕府の全国制覇が事実上完成する。
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戦い終わって、家康は影の功労者である正信を呼んだ。
「正信、よう働いてくれたのう」
「何の。永年に及んで積み上げたる我が知恵を一気に出したまでのことでござります」
「それこそが掛替えのなきものよ。正信、加増したいが、望みを申せ」
「いや。今の玉縄城で十分でござりまする」
「そうは参らぬぞ。表に出て戦った者達には加増し、褒美を与えて報いておる。正信、そちを埒外に置くことはできんぞ」
「いや。まことに玉縄二万石余。これで十分過ぎるほどでござりまする」
本多正信は主君家康が禄高を加増すると言うにもかかわらず、どうしても受取らなかった。
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尚、大坂を大阪と記すのは明治維新後のことである。又、本多正信の所領であった玉縄城とは現在の神奈川県大船市である。
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元和二年(1616年)四月十七日、徳川家康は七十四年の生涯を閉じた。その二ヵ月後の元和二年六月七日、本多正信も主君家康を追うように七十九歳で没した。
(完)
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