SSブログ

創作短編(35):謀臣本多正信 -8/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-12 WME36 梅邑貫

.

だが、徳川家康の頭上に煩わしい重石が載っていて、それは豊臣秀頼であり、豊臣政権を支えた五奉行の一人である徳川家康にとっては名目上ではあっても秀頼は主君である。慶長十五年(1610年)のある日、家康は正信を呼び、豊臣家を衰退させたいと語った。

.

「正信、如何にすべきかのう」

「軍勢で押し潰すは最後の最後。先ずはじわじわと秀頼殿を弱らせることでござりましょう」

「うん、それはよいが、如何に為すのか」

「長い戦乱で寺社が傷んでおりまする。寺社の再建、これ、大義の立つことにして、秀頼殿の虚栄心をくすぐり、加えて大阪城の金蔵を軽くするものでござりまする」

「うん、よいぞ。わしから秀頼殿に進言致そう」

「さらに、もう一つ」

「何じゃ」

「秀頼殿、御歳、未だ十八歳。それがしの大坂城内に於ける手蔓を活かし、秀頼殿を女色に溺れさせまする。女色は御政道の最大の敵にござりまする」

「うん。そうじゃが、耳の痛いことを大声で申すな。それに左様なことを、わしを見詰めて申すではない」

.

 本多正信の策が如何なる効果を上げたかは定かではなく、記録もない。ただ、最後は力任せの秀頼攻略となった。

 慶長十九年(1614年)十月二日から同年の十二月十九日まで、世に言う大坂冬の陣が戦われた。本多正信の長男正純、成瀬正成、安藤直次、その他の家康子飼いの将達が大坂城を攻めるが、大坂方が大坂市中の食糧を買占めて、徳川方は食糧不足に陥り、弾薬も尽きて和議となった。

 十二月二十日に和議は整う。だが、正信は表に出ることはなく、裏で智謀を尽くして和議に一計を盛り込み、豊臣方と交わす書状では文字を極力少なくし、口頭による言葉での約束を増やした。これが後に多大な功を現すことになる。


nice!(10)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。