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創作短編(35):謀臣本多正信 -4/9 [稲門機械屋倶楽部]

                          2011-12 WME36 梅邑貫

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「佐和山へか。うん、そうか。でも、治部少輔は近江の佐和山まで帰れるかのう」

「途中で、加藤清正達に再び襲われると申されまするか」

「左様」

「ならば、誰ぞに付き添わせましては如何でござりましょう。ともあれ、殿の庇護の下にあると思わせねばなりませぬ」

「相判った。だが、誰を付き添わせるかのう。まさか、わしに行けとは申さんであろうな」

「殿が動いてはなりませぬ。秀康様の軍勢で如何でござりましょう」「秀康か。名案じゃ。秀康の軍勢に挑む愚か者はおるまい」

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 秀康とは、徳川家康の次男である結城秀康である。家康には信康、秀康、秀忠の順に男児がおり、長男の信康は優れた武将に育てられたが、天正七年(1579年)に織田信長の命で自害に追い込まれ、二十一歳で世を去った。

 次男の秀康は、異説もあるが、双子で生まれ、しかも母親が家康の正室である筑山殿ではなく、妻妾のお万の方であり、さらに当時の風潮では、双子は「畜生腹」と言って嫌われた。秀康が生まれてから三年もの間、父親の家康は我が子の顔を見ようとしなかったほどで、十六歳も年上の兄の信康が懇請してようやく秀康と対面したと伝えられる。秀康は秀吉の養子になった後に北陸の結城家へ婿入りして結城秀康と名乗った。

 秀康と共に生まれた双子の一方は永見貞愛(ナガミ・サダチカ)で、叔父の永見家に引き取られて育ち、叔父の跡を継いで三河の池鯉鮒大明神で神官を務めたが、三十一歳で早世した。

池鯉鮒大明神の「池鯉鮒」は「チリフ」と読むが、後年になって知立(チュリュウ)神社と名を替え、愛知県知立市に現存する。知立市へはJR三河安城駅、或いは名古屋鉄道の知立駅が至便である。

結城秀康はこのとき二十六歳で、既に数々の武勇談で知られており、大柄な体格と落ち着いた振る舞いでその威厳は周囲を沈黙させるほどであった。


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馬爺

知立はもとは「池鯉鮒」だったんですか?
by 馬爺 (2011-12-09 09:01) 

梅邑貫

「カリメロ」さん、「hanamura」さん、「海を渡る」さん、「馬爺」さん、「xml_xsl」さん、「「rtfk」さん、「アルマ」さん、「夏炉冬扇」さん、常々の御愛読を有難うございます。

馬爺さんへ
知立(チリュウ)は江戸時代までは「池鯉鮒」と書きましたが、読みは「チリュウ」です。ただ、旧仮名遣いでは「チリフ」と書いて「チリュウ」と声に出しました。
by 梅邑貫 (2011-12-09 19:01) 

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