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創作短編(35):謀臣本多正信 -2/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                          2011-12 WME36 梅邑貫

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「合点致しましたぞ、忠興殿。古田殿はそれがしとの面識、それほど深くはござらぬ故、忠興殿に頼まれた。そうでござろう」

「はい。まさに内府殿のお言葉通りでござりまする」

「あれは二年前でござった。佐竹義宣殿の従兄弟で、義宣殿の与力にして大名の宇都宮國綱殿が太閤殿下の不興を買い、改易され申した。佐竹殿にも何がしかの沙汰が及ぶと思われしも、石田治部少輔殿の取成しで、お構いなしと相なりましたな。佐竹殿にしてみれば、石田治部少輔殿は恩人。なれば助くるは義の赴くところでござりましょう」

 細川忠興は無言で頭を下げ、心内で思った。「さすがは徳川家康、知恵の巡りは早い」

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 佐竹義宣が石田三成を援けたために、徳川家康から誤解されては困ると思って細川忠興は駆け付けたが、その心配は杞憂に終わった。

忠興が知るところでは、内府と呼ばれて畏れられる徳川家康は今は五十八歳、忠興自身は三十七歳。佐竹義宣は弱冠三十歳、石田治部少輔三成は四十歳。穏やかな表情で総てを飲み込んだ徳川家康の度量に細川忠興は感じ入りながらも、覗き見ることのできない懐の深さに怖さも知った。

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 細川忠興の妻は明智光秀の娘で玉子と呼ぶが、キリシタンに改宗した後の名「ガラシャ」でよく知られる。

 忠興が家康を訪ねた翌年の慶長五年(1600年)七月十六日夜半、細川忠興が上杉討伐で留守にしていた大坂玉造の細川屋敷へ石田三成の手勢が押し掛け、ガラシャを人質に取ろうとした。

 大名や名立たる武将の妻は、このような窮地に陥ると自害するのだが、ガラシャはキリシタンであるために自害を禁じられており、

そのためガラシャは一室に立て篭もり、忠興の留守を護る武士に自分の胸を壁越しに槍で突かせて落命した。

 細川玉子、またの名をガラシャ、このとき三十八歳であったが、辞世の句を次のように残した。

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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」


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