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創作短編(34):南高梅の元祖 -6/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2011-11 WME36 梅邑貫

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   駄々を捏ねる子供に言い聞かせるように安藤直次は諄々と頼将を諭して納得させた。

「それで、爺は如何するのじゃ」

「それがし、勿論でござりまするが、頼将様のお供で紀州へ参りまする。この直次だけではござりませぬ。水野重央(シゲナカ)もお供を仕りまする」

「爺の掛川は如何するのじゃ」

「掛川は捨てまする。爺も紀州に腰を据えまする」

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 江戸城で秀忠に拝謁した折、安藤直次は、掛川城を出る代わりに、紀州の田辺城を与えられ、掛川の所領を上廻る三万八千石が約束された。さらに、安藤直次は紀州藩主となる徳川頼将、後の頼宣に仕える単なる家老ではなく、将軍秀忠より頼宣を補佐するために派遣される家老であって、これを附家老(ツケカロウ)と呼び、それ故に大名並みに数万石の所領が与えられた。

 安藤直次と共に紀州藩藩主徳川頼宣の附家老となった水野重央は徳川家康の母方の従兄弟であり、頼宣が長福丸と呼ばれていた頃からの傳役であって、頼宣が駿府城に在った頃は遠州に所領が与えられていたが、紀州への移動に伴って新宮に三万五千石が与えられ、安藤直次と同じように大名並みの処遇を得た。

 徳川頼宣が駿府から紀州へ移ったこの元和五年(1619年)、当の頼宣は十八歳であり、水野重央は五十歳、直次は六十五歳であった。

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「爺と重央が共に参るなら、わしは紀州へ参る」

「よう決心なされました。この直次も嬉しゅうございますぞ。何もかも直次と重央にお任せ下されませ。殿のお心を煩わすこと、一切ござりませぬ」

「爺、長生きしてくれるのだぞ。よいな」

「はっ」

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 尚、尾張、紀州、水戸の徳川家御三家の内、紀州と尾張は江戸の将軍に後嗣がいない場合に、後継の将軍を出す藩と定められた。


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