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創作短編(33):藤堂高虎と西島八兵衛 -9/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                       2011-11 WME36 梅邑貫

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 津藩の藤堂家は徳川家康より絶大な信頼を得て、外様大名ながらも別格譜代とされて厚遇されました。しかし、外様は外様ですから、藩主の妻子は江戸に住み、藩主が参勤交代で津へ戻っても、妻子は江戸に留まらなくてはなりません。ただ、江戸常住を義務付けられるのは正室であって、側室は藩主と共に移動できました。

 藤堂高次の正室は、家康の忠臣で老中と大老も務めた酒井忠世(タダヨ)の娘ですから、江戸住まいには慣れてはいますが、津藩の江戸屋敷で面倒を見る者が必要で、田鶴にはその任もありました。

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 西島八兵衛の江戸勤務は三年で終わりますが、次にさらなる大任が待っておりました。

 慶安元年(1648年)、西島八兵衛は藩主藤堂和泉守高次に呼ばれ、

「八兵衛、次は城和加判役を頼むぞ」と命ぜられました。

新たな任務を仰せつかった西島八兵衛には拒むことは出来ませんが、拒む理由もなく、むしろ栄誉ある役職でした。

この頃の津藩は三十二万石余の大藩でありますが、山城と大和に飛地となる所領があって五万石ほどの規模になります。

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 城和は「ジョウワ」と読むであろうと著者梅邑貫は理解しますが、仮名を振った文献に出遭ったことはなく、「山城」と「大和」の二文字目を採った「城和」ですが、その両地を治める役目が城和加判役で、五万石の領地を治める大名にも等しい大役です。

  延宝八年(1680年)、西島八兵衛は八十五歳で没しましたが、日本の土木技術の草分けでもあり、優れた行政官でもあった西島八兵衛が日本の歴史で語られることは滅多にありません。

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 フランスの「ミシュラン観光ガイド版」では、西島八兵衛が築いた栗林公園(香川県高松市)を「わざわざ訪ねるに値する」として三ツ星を付しております。

 西島八兵衛が修復した満濃池は二百年後の安政元年(1854年)に起きた安政大地震で決壊しますが、明治三年(1870年)に修復され、西島八兵衛が基礎を築いた香川用水と共に、今日も讃岐平野を潤し続けています。


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コメント 1

ぼくあずさ

村尾さん
西島八兵衛を取り上げていただき、ありがとうございました。同姓の技術者がいたことは嬉しいことです。満濃池は空海が築いたと私も読みましたが、地元讃岐では八兵衛の功績が知られていると聞いたことがあります。
by ぼくあずさ (2011-11-27 04:44) 

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