SSブログ

創作短編(33):藤堂高虎と西島八兵衛 -6/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-11 WME36 梅邑貫     

.

  この頃、高松藩の藩主は生駒高俊で藤堂高虎の養女を母として生まれており、藤堂高虎には孫になります。

「八兵衛、既にそちの耳にも届いておろうが、高俊は暗愚じゃ。十一歳で藩主を継ぎ、わしが後見役になっておるが、遊び呆けて政を放り出しておるわ。八兵衛、讃岐は旱魃で苦しんでおる。そちは讃岐へ参り、満濃池を修築するのじゃ」

「はっ」

「宇和島、今治、篠山、我等が今おる津、伊賀上野、膳所。わしが築いた城は他にもあるが、凡そ教えたぞ、八兵衛。わしの代わりに高松城へ参り働いてくれ」

.

 西島八兵衛は高松藩の普請奉行となって、満濃池の修復を成し遂げました。

 満濃池は香川県に現在もあり、周囲20km、満水量1,540万㌧を誇る灌漑用の巨大な池としてよく知られており、150万分の1の日本地図にもはっきりと明示されるほどの巨大な池で、しかも古い歴史を誇ります。

 満濃池が最初に掘られたのは大宝年間(701-704年)のことですが、弘仁九年(818年)に決壊し、これを弘仁十二年(821年)に空海が修復しました。その後の元暦元年(1184年)に再び決壊しますが、それからの五百年近くを本格的に修復されないままになっていたので、寛永の初めの旱魃で農作物が甚大な被害を受けました。西島八兵衛は五百年近くも放置された満濃池を本格的に修復するために讃岐高松藩へ派遣されました。

 西島八兵衛はほぼ三年を掛けて満濃池を修復し、寛永八年(1631年)に満濃池を元の状態に戻してから津藩へ戻りましたが、西島八兵衛が満濃池の修復に奮闘している最中の寛永七年(1630年)に藤堂高虎が七十五年の生涯を終えております。

 藤堂高虎は縄張りの技を継いだ愛弟子の西島八兵衛の行く末を心配して、生前に文を与え、満濃池の修復を終えたら一度は津へ戻れと命じていたのですが、この後に高松藩で起きたお家騒動である生駒騒動に巻き込まれることから西島八兵衛を救いました。


nice!(8)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 8

コメント 2

hanamura

宇和島まで辿り着かず、今治までで18切符での城廻を断念したのは、今年の1月でした。いつの日か宇和島まで行きたい!(特急使って!)
by hanamura (2011-11-24 09:50) 

ぼくあずさ

hanamuraさん
宇和島は小さい城下町ですが、天赦園と磯場の料亭を記憶しています。
大学1、3年の2回学友の実家で歓待されました。山上の小さな天守閣は藤堂竹虎の築城が自慢の種でした。ゆったりと人々が暮らす、魚が大変美味しい処です。貴兄の訪問記事を楽しみにしています。
by ぼくあずさ (2011-11-24 10:53) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。