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創作短編(32): 対馬の甘藷 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                          2011-11 WME36 梅邑貫

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時         :元禄・宝永年間(1700年代初頭)の頃

場所    :対馬

登場人物 :対馬藩郡奉行陶山訥庵とその他

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 「創作短編(27):芋神様青木昆陽」で記したように、日本に於ける薩摩芋栽培は徳川八代将軍吉宗の治世下に於ける青木昆陽がよく知られておりますが、その五十年ほど前、五代将軍綱吉の時代に既に対馬藩で薩摩芋栽培が成功しております。

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 寛文七年(1667年)春、対馬の府中(現在の厳原)では十一歳の五一郎が父で藩医の陶山(スヤマ)玄育の前で正座して頭を下げた。

「父上、五一郎、ただ今より京へ上るべく出立致しまする」

「うん。木下順庵殿にはようお願い申し上げておる。常に前を見てよう学ぶのじゃ。よいな」

「はい。五一郎、しかと学びまする」

「医師の道はわしが教える。五一郎、お前は木下殿に朱子学を教えていただくのじゃ。お前が聞き飽きるほどに幾度も教えたが、医師の道は医術だけではない。医師も人としての徳を備えておかねばならぬ。木下順庵殿は医師ではない。暫くは、お前も医術を忘れ、己の徳を磨くことに専念せよ」

「はい。心得てございます」

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 陶山五一郎は、後に陶山訥庵(トツアン)と号するが、対馬藩の藩医陶山玄育の長子として明暦三年(1657年)に生まれ、父の跡を継ぐべく、この年に京都の儒学者木下順庵(ジュンアン)の教えを受けるために家を出た。

 木下順庵は京の生まれだが、儒者として幕府の儒官である林家とも親交があり、江戸へも度々通って強い人脈を構築していた。木下順庵が門弟に教えるのは朱子学が根底を成すが、中国の漢籍にも通じており、朱子学に限られることのない教えからは数多くの優れた人材が輩出していた。陶山玄育が五一郎を木下順庵に託したのはまことのもっともなことであった。


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