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創作短編(31): 坂田金時 -8/9 [稲門機械屋倶楽部]

                          2011-10 WME36 梅邑貫

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  かくして金太郎は坂田金時と名を改め、源頼光の臣下となって京へ行った。 京では母の八重桐も知っていた一条戻橋に近い源頼光の屋敷に入り、本物の弓と矢を与えられて、金太郎が子供の頃から磨いた弓矢の技にさらなる磨き上げを続けた。

 ほどなく、源頼光の命で渡辺綱と他の者も交えて弓矢の技術を競うことになり、坂田金時は三十間も離れた的に十射中十射を命中させて皆を唸らせた。

「坂田金時、こちらへ参れ」と、源頼光の声が響いた。

「はい」と答えて、坂田金時は源頼光の前で片膝を着いた。

「箭幸の技、衆を抜きん出て見事じゃ。頼もしいぞ。我が守護を命ずる」

「はっ」

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 刀が武士の魂と言われて剣術の技が持て囃されるのは江戸時代になってからのことで、この平安の時代は弓矢が最も重要な武術であった。その後、室町時代から戦国時代の頃は槍が取って替わる。

 鎮西八郎源為朝は強弓で知られた武将だが、坂田金時より百五十年ほど後、平安末期に弓を持って活躍した。さらに時代が下がって、五百年ほど後の戦国時代には加藤清正や福島正則のような槍の名手が現れる。江戸時代になると、柳生を初めとする剣術の時代へ移るが、弓矢から槍、刀への変遷は戦闘形態の進化によるところ大であり、その陰で見逃せないのが鉄砲の採用である。戦国時代に於ける鉄砲の採用は長距離攻撃の武器であった弓矢を衰退させ、さらに鉄砲の大量採用は槍をも衰退させた。

 江戸時代は戦闘がなくなり、持ち歩きに便利な刀が武士の美学として重用されるようになる。

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坂田金時はこのとき、二十八歳か二十九歳だが、それより年上で三十七歳の渡辺綱、三十六歳の碓井真光(ウスイのマサミツ)、四十歳の卜部季武(ウラベのスエタケ)と共「頼光の四天王」と呼ばれるようになった。


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