創作短編(29):軍神乃木希典 -9/9 [稲門機械屋倶楽部]
2011-10 WME36 梅邑貫
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昭和20年(1945年)9月2日、東京湾に浮かぶ米艦ミズーリーの上で日本は降伏文書に署名して大東亜戦争に於ける日本の敗戦を認めました。その二日前の8月20日、日本と戦った連合軍の最高指揮官であるダグラス・マッカーサー(Douglas McArthur)が厚木飛行場へ到着しております。
諸々の資料や出版部物を調べても、その日付が判らないのですが、マッカーサーは日本へ到着してからそれほど日が経たないとき、乃木坂の旧乃木邸を訪れてハナミズキを植えました。この木は、乃木将軍が満洲の水師営から持ち帰って植えたナツメの木と共に現存します。マッカーサーは乃木神社と乃木邸が過激思想の持ち主達によって襲撃されることを防ぐために、日本の世相が落ち着くまでの暫しの間ですが、警備のMPを配しました。
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日本を統治した占領軍最高司令官であったダグラス・マッカーサーの父親はやはり米国陸軍の将官であったアーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur McArthur Jr.:1845-1912)でありましたが、日露戦争の最中に駐日大使館に在って駐在武官を務めており、当時未だ陸軍大尉であった息子のダグラスは父の副官として東京で勤務しました。
この父親が息子に「軍人たる者、乃木大将の如くあれ」と常々諭し続け、乃木希典の人格高潔なるを見習うよう教えていました。
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父親のマッカーサーは東京を拠点にして日露戦争を中立国の武官として観戦しており、その際、息子のマッカーサー大尉と共に満洲の地で乃木希典大将と会見しております。残念ながら、マッカーサー父子が何時、何処で乃木希典大将と会ったかが判りません。
しかし、ダクラス・マッカーサーにとって、乃木希典大将は父親から軍人の理想像として教え込まれ、若い頃に一度は会ったことのある人物でありました。「ぼくあずさは地球人」に連載された月川善雄氏の「アメリカ共産党と大東亜戦争」で記されたように、マッカーサーが後年になってアメリカ議会で行った証言が他の軍人や政治家とは一味違うことがよく判ります。
マッカーサー父子と乃木希典の関わり知りませんでした。 司馬遼太郎の乃木批判、小説の上とはいえ少し行き過ぎていると感じてはいました。
サンアントニオから北西に一時間あまりのところにフレデリックバークという小さな町があります。 ここは太平洋司令長官だったニミッツが生まれた場所で、尊敬していた東郷平八郎の品々がニミッツ博物館に展示されています。 戦艦三笠、東郷神社保全などでも彼は尽力しました。 軍人の間での尊敬の念がマッカーサー・乃木そしてニミッツ・東郷の間には感じられます。
by 大嶋邦夫 (2011-10-16 07:53)
軽く聞こえたら申し訳ないのですがぁ・・・
軍人は自分の仕事に、本当に命がけなのですね。
そして冷静!私も自分の仕事に対して親切に成らなければ!
「稲門機械屋倶楽部」次作を期待しています。
by hanamura (2011-10-16 16:24)
大嶋さんへ
この「乃木希典」を書く前、東郷平八郎とニミッツのことも頭を過ぎり、どちらを書こうかと迷いました。結局、東郷平八郎は日本でも知名度が極めて高いので、いささか日陰に追いやられている乃木希典を選びました。それともう一つ、乃木希典には自作の漢詩がありましたので、私はより親しみを覚えました。
hanamura さんへ
いつも御愛読を有難うございます。hanamura さんをはじめとする読者の皆さんに期待されていることが私の最大の励みとなります。
毎回お楽しみいただけるよう努力しておりますので、今後も御愛読いただけるようお願い申し上げます。
by 梅邑貫 (2011-10-16 19:49)
乃木大将については、長州人として紹介したい人でしたが、長州の関係者としては、大嶋さんが紹介している司馬遼太郎の虚構の小説とは言えない「坂の上の雲」や「殉死」で、ボロクソに批判されていることに触れざるを得ず、躊躇していました。
by N.Hori (2011-10-16 20:25)