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大震災6か月・専門家の反省 -3/5 [明治維新胎動の地、萩]

                                  .by N.Hori

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置き去りにされた海岸線の防災 (群馬大教授、片田敏孝氏)

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 私が防災教育の指導を行った岩手県釜石市の小中学生はほぼ全員避難した。一方、同市では、約1300人の死者・不明者が出た。学校での取り組みが地域に広がることを期待したが、そうならなかった。その背景には、日本の防災が抱える構造的な問題がある。

 日本の防災は、戦後、河川の氾濫を抑えることが中心だった。従って、海岸線が長い割には海岸(津波)の防災は意外と脆弱だ。

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地震については、東海地震の危険性が言われ、地震予知の必要性が訴えられたが、耐震化など地震防災に一般国民の関心が集まったのは16年前の阪神大震災以降。阪神大震災においても事前の防災よりも事後の復旧・復興に調査・研究が集中した。

その後、地震が頻発し、日本は地震の活動期に入ったと言われ、三陸沖や難解地震など津波を起こす地震にも関心が集まり始めた。それは、ここ10年の話だ。私の津波避難研究・防災教育実践はこの10年と歩みを同じくしている。

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津波は瞬時に被害が決定づけられる地震と異なり、地震後、津波が沿岸部に到達するまで一定の猶予がある。この間に迅速に避難すれば「犠牲者ゼロ」にすることは可能なのだ。

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だが、今回の被害を見てもわかるように人は逃げない。理由は先に述べたような日本の防災体制に裏付けられた国民意識にある。河川を中心とした堤防などハード面の整備に多くの労力が注がれた。その結果、河川の氾濫による死者は戦前に比べ格段に減った。地震研究も進んでいるかのように喧伝される。このため、日本人は災害情報への依存心が強くなり、自らの判断と行動で自然災害に立ち向かうという心構えを失った。これは一般国民だけでなく役人や政治家も同じだ。

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それ故に、釜石では、海洋資源が豊かな三陸には津波の脅威があったという現実と「自らの命を守るのは自分でしかない」ことを繰り返し訴え、どうしたら難を逃れられるかを一緒に考えてきた。

このことを理解し行動した人たちは「犠牲者ゼロ」のエリアに滑り込むことができた。

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釜石で試行錯誤するのに8年掛かったため、他の地域にひろげることはかなわなかったというのが現実だ。しかし、この取り組みは「釜石の奇跡」として全国に広がりつつある。

今回の大震災で打ち砕かれた日本人の安全神話を再生する一筋の光明になり得ると信じたいのだが。


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