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創作短編(28):追い腹は切るべきか -3/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-09 WME36 梅邑貫

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  ところが、松浦壱岐守隆信が没すると、浮橋主水は周辺の者に、

「某には、跡を継がれる若殿にお教え申すことが多々あり、これも大切なお役目と申すもの」と広言して、「追い腹」を綺麗さっぱりと忘れました。

「武士に二言、あるまじきこと」は武家社会の厳しい掟であり、武士道の根幹を成す道義でありましたから、あるまじき「二言」を犯した浮橋主水は平戸藩内での立場を失って疎外されました。

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 四百年ほど前の江戸時代初期の頃も現代の今日も、二言ある者への評価は同じです。最近のことですが、某国の前宰相と元宰相が会談して前宰相の引退を話し合ったのですが、その後で「辞めると言った」、「辞めるとは言わなかった」との痴話喧嘩になり、挙句の果てに前宰相が元宰相から「ペテン師」と呼ばれました。

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 浮橋主水が誰かに話し掛けても、返事もしてもらえないどころか、横を向かれて相手にしてくず、平戸藩では浮橋主水の存在する場所がなくなりました。

 「武士に二言あるまじき」は武士同士の信頼関係を保つための鉄則であり、前言を翻すことは、信頼を失うことを意味します。ですから、浮橋主水の居場所がなくなったのは当然でした。

 特に、浮橋主水が代々続く武士の家系ではなく、藩主に取り立てられる前は漁師の子であったことから、平戸藩で代々仕えて苦労した武士達からは、「二言を弄した者」に冷たい視線が集ったと容易に想像できます。

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 浮橋主水を引き立てた平戸藩の藩主松浦隆信は「マツラ・リュウシン」と読みますが、その跡を継いだ松浦鎮信(シゲノブ)はまだ十六歳で、周りの者が進言もし諫言もしたと想像されますが、父親が引き立てた浮橋主水に「腹を切るな」とか「腹を切れ」とも言わず、ましてや「使い番に留まれ」とは言わなかったようです。

 やがて平戸から浮橋主水の姿が消えたのですが、最早どうでもよい存在になっていた浮橋主水の行方を調べる者もいませんでした。


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