SSブログ

創作短編(28):追い腹は切るべきか -1/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-09 WME36 梅邑貫

.

時       :寛永十四年(1637年)

場所     :平戸藩と江戸

登場人物:平戸藩家老熊澤大膳、その他

.

「追い腹」(オイバラ)なる言葉を読者の皆さんは御存知でしょうか。ともあれ最近ではまったく聞かない言葉です。主君が没したとき、家族や遺臣、特に恩顧を受けた臣下の者が主君の後を追って自刃すること、即ち腹を切って殉死することです。

 武士の美学として殉死は現実にあったことで、特に跡を継ぐ若い君主や藩主にとって、先君に仕えた老臣は何かと煙たく、実力でも敵わないので、家臣の方が気を利かして殉死した例があります。しかし、一方では熟練の臣下を失って統治力が衰えることもあり、江戸時代の寛文三年(1665年)、徳川四代将軍家綱の時代に「追い腹」禁止が口伝され、さらに天和三年(1683年)、五代将軍綱吉のときに発布された武家諸法度(ブケショハット)で「追い腹」禁止が明文化されました。

 以来、殉死とか「追い腹」は聞かなくなるのですが、明治天皇が崩御され、その大葬が行われた大正元年(1912年)九月十三日、陸軍の重鎮であった乃木希典が夫人の静子と共に自刃して殉死しております。日本の歴史では、この乃木希典・静子夫妻の「追い腹」が最後の例になると思われます。

.

 寛永十四年(1637年)、平戸藩の藩主松浦壱岐守隆信が没し、恩顧を受けた家臣八人が追い腹を切りました。世は三代将軍家光の時代で、四代将軍家綱による「追い腹」禁止令も出されていませんから、武家の社会として当然の慣行であったと考えられます。

 ところが、このとき誰もが追い腹を切ると思い、本人も追い腹を切って、「殿から賜った御恩に報いるため、それがしは腹を切って殿の御後を追い申す」と公言し広言していた者がいたのですが、その者が追い腹を切りませんでした。追い腹を切るか切らないかは、いくら封建制の時代でも本人の意思ですから、追い腹を切らなくても構わないのですが、切ると言ってしまったら別です。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。