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創作短編(27): 芋神様 青木昆陽 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-08 WME36 梅邑貫

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  青木昆陽は幕府の書物奉行に取り立てられました。ところが、青木昆陽が書物奉行を拝命した時期が明らかになりません。

 一説では、大岡越前守忠相が南町奉行に在任中の享保二年(1717年)から元文元年(1736年)の間に、青木昆陽は大岡越前守の推挙で書物奉行に就任したと記録されています。

 又、他説では、青木昆陽の書物奉行就任は明和四年(1767年)であるとされ、青木昆陽が没する明和六年(1769年)の二年前のことになり、さらに大岡越前守忠相は寶暦元年(1752年)に没しておりますので、その死後十五年後に青木昆陽は書物奉行に就任したことになります。

 しかし、書物奉行の定員は四名であり、その下に二十名ほどの同心もおり、さらに奉行並みと呼ばれる扱いもあったことから、青木昆陽の書物奉行就任の時期を確定するのは至難です。ここでは、大岡越前守が南町奉行在任中として話を進めさせていただきます。

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「昆陽殿、上様は蕃藷の出来具合をことのほかお喜びでございますぞ」

「有難きお言葉を賜り、昆陽、我が身の誉れにござりまする」

「それだけではござらぬ。昆陽殿の蘭学に傾注せしも上様はお聞き及びで、此度、昆陽殿を御書物奉行にお取立てになられた」

「はっ、身に余るお言葉」

「昆陽殿、書物奉行は禄二百俵に七人扶持でござる。上様の思し召しでござる」

「はっ、はい」

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 青木昆陽は若い頃に京都で儒学の伊藤東涯に学んだときから、その身分は浪人の扱いでしたが、書物奉行に取立てられたことにより、禄高は御家人並みですが、ともあれ幕府の直参となりました。

 尚、青木昆陽の蕃藷栽培は種芋から直接行うもので、苗代で育てた芋蔓を植えるものではなく、今の時代には採用されていません。又、青木昆陽の百年前に対馬で甘藷の栽培が本格的に行われていた記録があり、機会があれば別稿で記します。     

                            (了)


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