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創作短編(27): 芋神様 青木昆陽 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-08 WME36 梅邑貫

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 青木昆陽は「薩摩芋作り」の「甘藷先生」としてで後世に知られており、千葉県の幕張には「昆陽神社」が建てられて、「芋神様」として讃えられているほどです。

この「昆陽神社」はJRと京成電車の幕張駅から徒歩五分ほどの至近距離にあり、秋葉神社と同じ境内にあります。

 また、東京の目黒不動として知られる龍泉寺には青木昆陽の墓所があり、「甘藷先生之墓」と記されています。

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 しかし、青木昆陽の事跡は甘藷、即ち薩摩芋作りだけではありません。将軍吉宗の下命に従って蘭学の習得に努め、いつ頃のことか詳しくは判らないのですが、晩年の青木昆陽に前野良沢が師事して蘭学を学んでおります。

 少々話題が逸れますが、前野良沢は豊前國(大分県)中津藩の藩医でありました。享保八年(1723年)生まれですから、青木昆陽よりも二十五歳も若いのですが、青木昆陽に師事したのは藩主の参勤交代で江戸に滞在した折と思われます。明和七年(1770年)に中津藩へ戻る途中で長崎へ留学して本格的に蘭学を修めます。

 安永三年(1774年)、有名な「解体新書」が世に現れますが、これは人体解剖図である西洋の書「ターヘル・アナトミア」の翻訳書であり、翻訳者は杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周の三名です。ところが、後年、文化十二年(1815年)に杉田玄白が「蘭学事始」を著し、解体新書の翻訳者に前野良沢も加わっており、四名で三年五ヶ月を掛けて翻訳したと記しています。

 翻訳者の名に、何故、前野良沢の名がないのか。前野良沢が次のように言ったと杉田玄白が書いております。但し、私が若干の脚色をしておりますので、御承知置き下さい。

「我が蘭学と蘭語、まだまだ自信がござらぬ。青木昆陽殿に師事し、長崎にても学び申したが、自信が未だに持てぬ。解体新書は我等の人体を解体致して克明に解明せし書なれど、果たして僅かな間違いもなく和語に翻訳しおるか否か、よう判らぬままでござる。左様な有様にて、我が名を記すはまことに畏れ多きことなり」


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