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創作短編(24):會津戦争 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                           2011-07 WME36 梅邑貫

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 明治二十六年(1893)十二月五日、松平容保は五十八歳の人生を閉じた。禰宜の保科近悳は神殿に独り入り、神官の礼法を敢えて忘れて語り掛けた。

「殿、この保科近悳、旧名西郷頼母、家老としての務めを全うし、これを以って終わりに致しとうございます。至らぬこと多々ござりましたが、殿をお送り申し上げ、重い肩の荷が降りましてございます。これが殿との永久のお別れにございまする」

 その後、保科近悳は日光東照宮の禰宜を辞して若松城下へ戻り、十軒長屋と呼ばれる粗末な住まいに居を定め、明治三十六年(1903年)四月二十八日、七十四歳の波乱の一生を終えた。

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 明治十五年(1882年)五月、教育者嘉納治五郎が講道館を開き、人格形成の基礎となるべき柔道の普及を始めたが、この初期の講道館に四天王と呼ばれる者がいた。年齢順に記すと次の四名である。

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横山作次郎 鬼横山と呼ばれ、払腰を得意技として七段。

セオドル・ルーズベルト大統領の時代に、米国海軍兵学校で二年契約の柔道教官を務めた。

富田常次郎 最初の入門者で、巴投げを得意とする七段。

山下善昭  初の十段位授与者。

西郷四郎  強烈な足技「山嵐」で柔道界を席巻。六段。

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四人目の西郷四郎は、西郷頼母が保科近悳と改名した後、西郷家を継がせるべく養子にした西郷四郎で、初期の講道館へ入門した。

西郷(旧名志田)四郎は十六歳で保科近悳の養子となり、十七歳で上京して陸軍士官学校の予備校へ通いながら講道館へ入門した。

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富田常次郎の次男が作家の富田常雄で、昭和17年と昭和19年に上下二巻に分けて出版された長編小説で明治の柔道家を著した「姿三四郎」は西郷四郎をモデルとした。

                                             (了)


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