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創作短編(24):會津戦争 -5/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-07 WME36 梅邑貫 

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 文久二年(1862)閏八月一日、會津藩主松平容保は正式に京都守護職に就任し、會津藩士千名ほどを率いて京都へ入り、浄土宗の金戒光明寺(コンカイコウミョウジ)を本陣とし、翌文久三年(1863)には結成されて間もない新撰組も配下に入れて京都の治安維持に努めた

一方、松平容保は京都へ出立する前に西郷頼母を呼び、「その方、藩主の許しを得ずに勝手なる行い多し」として、家老罷免と蟄居を申し渡した。

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 京都守護職としての松平容保は京都の治安維持、特に天皇御所の護衛には意を注ぎ、ときの孝明天皇から宸翰(シンカン)を賜ったほどであった。宸翰とは、今日流に言えば、孝明天皇直筆の感謝状であり、これに御製も添えられていて、孝明天皇が如何に松平容保を信頼していたかを物語る。

 当時の京都は、慶應二年(1866)十二月五日に十五代将軍に就いた一橋慶喜と會津藩、さらに京都守護で兵を送った桑名藩を合わせて「一會桑」と呼ばれる三者によって治安が維持された。

 慶應三年(1868年)十月十四日、将軍慶喜が大政奉還を申し出て、翌日に明治天皇より勅許を受けた。徳川幕府はこれを以て終焉し、京都守護職とその軍勢も解体されて消滅した。

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 會津藩は孝明天皇から宸翰を賜りながらも、新たな明治政府によって朝敵と見做され、慶應四年・明治元年(1868年)閏四月二十五日に白河を政府軍によって攻撃され、九月二十二日には遂に若松城が陥落して政府軍に降参した。

 この會津戦争は戊辰戦争としても語り継がれ、少年達で編成した白虎隊やその下の年齢の幼年隊の奮闘と悲劇は今日も生々しくその足跡を残している。

 會津若松城が陥落する直前の頃、藩主松平容保は一度は解任した西郷頼母を家老として呼び戻したが、ここでも頼母は政府軍への恭順を説いた。しかし、一方で頼母は政府軍との戦いを指揮しており、これは頼母が単なる非戦論者ではなかったことの証左である。


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