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創作短編(21):小野妹子、外交文書を捨てる -4/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                       2011-06 WME36 梅邑貫.

                                                                                                             地の総てを統治すると自負する煬帝にも弱味がありました。朝鮮の高句麗を三度攻めて三度敗退しました。

「あの憎き高句麗を押し潰すには如何にすればよいか」と、煬帝は臣下に問い続けましたが、名案は未だ出て来ません。

「そうか。日が出ずる處に倭人の天子とやらがおったな。倭人は戦に強いか、弱いか。誰か倭人の強さを知っておるか」

「百済の南部には倭人が大勢押し寄せていると聞き及びます」

「そうか。でも、それだけか。倭人の使者が帰るとき、誰かを一緒に倭の国へ行かせろ」

「はっ。しかしながら、親書への返書は如何致しますか」

「うん。先ず、天子を称するはまかりならんと伝えよ。だが、突き放すではないぞ。高句麗との戦いに倭の国と挟み討ちにすることもあろう。余の怒りを伝えるも、含みを残せ」

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 煬帝はふと思い付くことがあって、近習の者に倭の国へ行かせる者を選べと命じました。

暫しして、文林郎の斐世清(ハイ・セイセイ)が召し出されました。隋王朝の時代、臣下は文官と武官に二分され、文官は二十九の位階に順序付けられており、斐世清は下から二番目の従九品上で、これを文林郎と呼びました。

 尚、後に斐世清は斐清とも呼ばれますが、隋朝の次の唐朝二代目の皇帝である太宗の名が李世民であることから、唐の文書では皇帝と同じ名の文字を遣わぬようにしたことによります。

 日本にも同じ風習がありました。幕末安政の時代に老中首座であった佐倉藩主堀田備中守正篤は、十三代将軍徳川家定の御台所となった篤姫に畏れ多いとして、正篤から正睦へと改名しました。

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 「その方は、倭人の使節が国へ戻る折、共に倭の国へ赴き、倭の国の強さを細かく観て参るのだ。そちには国書を持たせる」

 三跪九拝して畏まる斐世清に煬帝は命じましたが、後は言葉にしませんでした。「思ったより官位の低い者が選ばれたが、倭の国へ行けば船が難破して生きて戻れぬかも知れぬ」


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